戦後35年の訪韓(後編)(前編よりの続き)
私の3度の訪韓のうち最初と2度目はたしか5〜6人のメンバーによる訪韓で、数多くの被爆者の聞き取り調査を行った。だが3度目の訪韓(1981年3月)はメンバーは2人きり。そして訪ねる被爆者も1人きりというものだった。当時、在韓被爆者を支援する市民団体のメンバーで、ホームビデオを使った被爆者の証言記録作成に情熱を燃やすTさんという人がいた。この人がある被爆者1人にスポットをあて、長時間にわたるインタビューを行い、記録したいと考え、企画が実現した。当時のビデオ機材はでかくて重たかったので、撮影助手として私も同伴することになったのだ。
その被爆者の女性が暮らしていたのは韓国東北部江原道の38度線近辺にある寒村。ソウルから未舗装の幹線道路を乗合バスで何時間か走ってたどり着いた。38度線に近づくと、峠の切通になったところ、道路の両側の崖の上に岩が積み上げられ、網がかけられているのを数多く見かけた。Tさんの解説によると、あれはもし「北」が攻め込んできた場合、その岩を落として道路を封鎖するためのものだと言う。
さて、目的の村に着いて早速われわれは近辺の風景を撮ろうと、あたりを散歩しながらビデオカメラを回した。その様子は、辺鄙な村ではいかにも怪しかったのだろう。すぐに警察官が職質にやってきた。何せ、ここは「国境」の村。しかも戦後日本人がやって来るのはおそらく初めてというような寒村である。だが、何やかやがあって、その日の予定が終わり、夕食を食べようと、われわれは隣の村へ歩いて行った。隣村の方が少しは町っぽさがあり、食堂などもあったからだ。するとさっきわれわれを職質した警官と出くわした。なぜか一緒に酒を飲もうということになり、その上、食事が済んだわれわれを宿まで送ろうと言う。彼のバイクで!? 現職の警官が外国人2人とバイクの3人乗り。しかも飲酒運転である。さらに発車するなり、彼はよろめいて、こけた!! Tさんは少し擦過傷を負った。
この時の訪韓は、他にも色々と愉快なエピソードがあるのだが、切りがないのでやめておく。ただ、私にとってこれまでの生涯でもっとも愉快な体験だった。帰国したとき、いみじくもTさんが私に言った。「伊藤くん。ぼくたちは旅行したんじゃない。旅をしてきたんだよ。」