IZUMINO-izm 23年03月号より
1981年1月

先月より続く
1981年1月、私たちは12月に引き続き、二度目の教養部代議員大会(以下、C代大)開催に向け、闘いを開始した。まずは人目を引くパフォーマンスをやろうと、大学のシンボルである時計台に登ることにした。近年のTVドラマ「ガリレオ」にも登場した、当地では有名な建物である。建物の裏手から侵入し、はしごをかけ、時計台棟の屋上に十数名(?)が上がった。屋上からビラをまき、アジ演説を十数分(?)やった。地元のTVでも放映されたらしい。こういう派手な行動をする時、なぜか中核世代の活動家ではなく、少し上の先輩たちが張り切って参加してきた。こうした上級生たちを、私たちは「年寄り」と呼んでいた。

1月23日、私たちはバリケードストライキ(略してバリスト)を決行した。C代大に向け「クラ討を保障するため」という名目と、実力闘争=大学当局・権力との対峙という身ぶりとが混在した行動だった。だが、今から考えると、C代大という民主的な意思決定手順と、バリストという力づくの授業妨害策とが、何ともアンバランスな感じだった。実際、授業を潰された学生たちのほとんどは、活動家連中によって押しつけられたクラ討などせず、続々と帰宅していった。戦術として疑問は残る。ただ、それでも当時、私たちは「日韓連帯!」という意思表示を何であれ、強く示したかったのだ……。

さて、金大中を被告とした軍事法廷は、1月23日の最終審で三たび死刑判決を下した。ただ、その直後、「特赦」により無期懲役、さらにその後国外追放という茶番劇により、一連の騒動は幕となった。学内もまた、やがて春休みを迎え、静かになっていくのである。


と、このように、この頃、私にとっては成人式どころではなかった。東西冷戦のさなか、韓国には冷戦の最前線基地として反共的な軍事独裁政権ができ、その末に光州事件のような悲劇が起きた。だから、私たちは、大人たちが作ったこうした秩序に対して異議申し立てをしたかったのだ。大人への仲間入りを祝いあったり、大人たちに祝ってもらったりする式典に出席しようという気にはなれなかった。

とは言え、私たちはいかにも未熟だった。最近、当時の私たちの大学で配られていたアジビラ多数をPDFにして公開しているWebサイトを見つけたのだが、今見ると、正視に堪えないほど稚拙で赤面ものだ。そう言えば、未熟であることが私の二十歳の原点と、高野悦子も書いていたっけ…。注)


注)高野悦子:「二十歳の原点」、新潮社、1971年

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