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「存在意義が欲しいのだろう? ティア」
背筋凍りそうなほど冷たい声色で、その男はそう言葉にした。
――“ティア”
その名は、シルクにとって、祖国と共に捨てた名だった。
目の前の男が何故その愛称を知っているのか――。
答えは簡単だった――。
黒布で頭部と顔面のほとんどを覆い隠してはいても、そうしてシルクを見下ろす瞳にどれほど冷酷な色を浮かべて見せても、紫灰色のその瞳を見た瞬間、シルクは全てを思い出していた。
あの夏のひと月、共に過ごした時間を――。
カルハドール王国第2皇子、シャルハーン=リィン=カハドゥム。
それがその男の名前であった。
あの夏、シルクの祖国であるセレン王国に“留学”に来た。
そして、セレン王国第2王子、シルカティア=デュイ=ラ=セレン、それがその頃のシルクの名前であった。
その男が何故こんなところで盗賊まがいのことをしているのか。
風の噂で聞いたことはあった。
カルハドール第2皇子は皇太子殺害を企て、死刑に処された、と。
その話を耳にしたとき、遠い過去のひと夏を想い出して、シルクはたった1人で泣いた。
「……存在意義、か」
男の声とは対照的な鈴の音のような声色で、シルクがぽつりとそう零す。
「ああ、お前に生きる価値をくれてやる」
ぶっきらぼうにそう答え、男は曲刀でシルクの外套の留め金を弾いた。目深に被っていた頭巾ごと外套が滑り落ちる。翡翠色の瞳に落ちた外套を映し、そうして次の瞬間、意を決したようにシルクは顔を上げた。
ざわっと周囲が騒がしくなる。
それも無理からぬ話だった。
これまで見たこともない、際立った美しい造形がそこにあった。肩の辺りでやわらかく弧を描く灰色がかった金髪(アッシュブロンド)に、切れ長の淡い翡翠色の瞳、傷一つない透き通った白い肌、それらが見事に調和して、シルクという人物を象っていた。
男を見上げるシルクの瞳の中、冷ややかな紫灰色の瞳がすぅっと細められる。
その中には、他の誰とも違う、“感嘆”でも“驚愕”でもない、強いて言うなら“怒り”に近い感情が込められていた。
そして、そんな感情をぶつけられるだけの理由には、十分心当たりがあった。
「これほどの器量、恵まれた才能……、その全てが要らぬというのなら、私がもらってやる」
「…………」
「要らぬから、国を捨てたのだろう? ティア」
シャルハーンの言葉が、シルクの胸に突き刺さる。
――そう、国を捨てた。
この手の中に精霊石が現れるのを見たくなかったから。
「ティア。国を捨てたお前、国に捨てられた私、いずれも存在意義を失った人間だ」
――同じではない。私は自分から逃げ出したのだから。
「そのお前に、存在意義をやろう」
――だから、お前には怒りをぶつけるだけの理由がある。
「お前の身一つで、他の人質は解放してやると言ったら、どうする?」
――!?
「お前は、私の娼館で性奴隷として働け。私に服従しろ。それで他の人間は解放してやる」
「…………彼らは、このオドレス砂漠でたまたま同じ隊商だっただけ。私とは縁も所縁もない人たちだが?」
「知っている。そして、たまたま一緒に盗賊に襲われただけだ、ということもな」
黒布に覆われたシャルハーンの表情が、含み笑いへと変化する。
「お前も他の奴らも私の手の内にある。私としては、皆売り飛ばしても構わんのだがな。お前に存在意義を与えてやろうと、そう提案しているだけだ」
冷たい声でそう言い放ち、シャルハーンは喉の奥でくっくと哂った。その声が脳裏に木霊するのを感じながら、同時に軽い眩暈を覚え、シルクは軽く頭を振った。
一呼吸置いて、美しい翡翠色の瞳で真っ直ぐにシャルハーンを見つめる。
そして、
「受けた」
と短く、そう一言、そう答えた。
シャルハーンの瞳が見開かれる。だがそれも一瞬のことで、シャルハーンは再び冷笑を浮かべた。真っ直ぐに見つめたままのシルクの視線とぶつかる。その視線から逃れるように一つ舌打ちして、シャルハーンは踵を返した。
「……覚悟しておけ、ティア」
最後に一言、背を向けたまま、そう言い残して――。
「それで、お前が満たされるというのならな」
シャルハーンが去った後、小さな声でシルクはそう呟いた。
「……存在意義、か。お前と私の存在意義は、この世の何処にあるのだろう……?」
そう呟くシルクの声は、砂漠の乾いた風の音に掻き消されていった。