Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 恋情 


 何故、ここにいるんだろう……。
 俺は、誰……?

「ヴィ、座れ」
 クイドが付けてくれたその名前を、ザインに呼ばれた。目の前の椅子が引かれる。たぶん、ここに座れということなのだろう。でも、座ってやらない。何一つ思い通りになんかなってやらない。
「……ヴィ?」
 じっとしていると、もう一度名前を呼ばれた。

 勝手にその名前を呼ぶなよ。
 呼んでいいのは、クイドだけだ。

 想いを馳せると、『ヴィ』と呼んでくれるクイドの優しい声が聞こえたような気がした。
 ひと月前のあの日、何もかも失くし自分が誰かも判らなかった俺を拾ってくれたのが、クイドだった。
『名前も思い出せねぇのか。まあ、いいさ。名前なんかいくらでも付けてやっから』
 そう言って、クイドは笑った。
 あの瞬間から、今の俺を作ってくれたのは、クイドだ。
 愛されているとそう思った。だから、抱かれた。
 このひと月、本当に幸せだった。
 俺にとっては、それが『全て』だった。
 でも、クイドにとっては違った。それに気付いたのは、ついさっきのことだ。
『じゃあ、こいつの身体で』
 事も無げに、クイドはそう言った。
 そして俺は、『賭けに負けた代価』としてここにいる。

 そう、俺は、クイドに売られたんだ――。

 放心したまま、連れて来られたのは、シーランスの盗賊(シーフ)ギルドだった。俺を買ったザインという名の片目の男は、そのギルド長だという。シーランスの盗賊ギルドといえばリルベ地方最大の地下組織だ。『暗殺』や『諜報』なども手掛け、一国の命運すら変えることが出来るとかいう恐ろしい噂もある。そのギルド長が、どう見ても30歳くらいにしか見えないこの男だなんて、正直ここに来るまで信じていなかった。だが、ギルドでの周囲の態度を見せられ、一番奥の部屋に連れて来られた今となっては疑いようもなかった。
 でも、そんなこと、どうでもよかった。

 俺は、『身体』を売られたんだ。

 視線を上げると、薄暗い部屋の奥に寝台があった。つかつかとそっちへ歩いていく。
 何でもいい。早く終わらせてしまいたかった。
 とっとと抱かれて、そして――。
 辿り着いたその考えに、思わず失笑した。
 こんな目に合わされて、それでもクイドのもとに帰ろうとしている自分にもう呆れるしかなかった。

 それでも、クイドが好きだったんだ……。

「……生憎と、先客がいるぜ?」
 突然そう声を掛けられ、慌てて寝台の上を凝視した。誰かがいた。こんなに近くに来るまで、いや声を掛けられるまで、その気配に全く気が付かなかった。驚きの余り数歩後退ってしまう。
「あ、わりぃ、わりぃ」
 寝台の中から起き上がってきた青年が、人懐こい笑顔を向けてくる。余りにそぐわないその笑顔に、一瞬ここが何処なのか疑いたくなった。
 だが、気だるげに掻き上げた栗色の髪の間から白い項が見えた。鮮やかに浮かぶ情事の跡に、彼が何者なのかようやく理解した。
「恋人が、いるくせに……」
 俺を買ったのか。俺の身体を貰うことを承知したのか。
 そう思うと、吐き気が込み上げて来た。
「恋人じゃねぇよ」
 肌蹴た胸元を晒しながら、先程の青年が反論した。相変わらずの笑顔だ。
「俺も飼われてんの。よろしくな。――ヴィ」
 そう言って俺の頭をぽんぽんと叩くと、その青年はザインのもとへと歩いていった。足音1つ立てない静か過ぎるその動作が、この場にそぐわない笑顔を浮かべる彼もまた裏社会に生きる人間であるということを物語っていた。
「……何を考えてる? フォード」
 ザインの声が聞こえる。
「ん? ……牽制かなぁ?」
 そう答えて、フォードと呼ばれた青年は楽しそうに笑った。
 誰に対する何の牽制だというのだろう?
 笑顔の向こうに隠したフォードの考えはよく判らなかった。
 ザインはというと、ただ喉の奥で笑っていた。
「まあ、いいさ」
 そう答えたザインの腕がフォードの腰を引き寄せる。一方、自ら衣服を肌蹴けながらフォードは椅子に腰掛けたままのザインの膝に跨った。
「坊やは見学だ」
 場にそぐわない明るい声でフォードはそう告げた。そしてそのまま腰を沈めた。

「……あ、あ……ッ、そこ……っ、いい……、っん」
 薄暗い部屋に、上ずった声が響く。その声が上がる度に、ザインはくっくと笑った。
「どうした、いやにサービスがいいじゃねぇか」
「まあな……、あッ、んんっ!」
 フォードがびくん、と身体を震わせる。
「……はぁ……ッ! あ……、あ、」
 限界まで背を仰け反らせ、フォードは掠れた吐息を落とした。そのフォードの腰をぐいっと引き寄せ、ザインが動きを止める。何が起こっているのかは一目瞭然だった。一瞬そこだけ時間が止まったように見えた。
 そして、ふうっと息を吐く音が響いた。
「今朝、坊やが来たぜ?」
 静寂を破ったのは、ザインの一言だった。ほんの一瞬、フォードがぴくりと身体を強張らせるのが見えた。
「……関係ねぇよ」
 短くそう答えて、フォードは額に張り付いた栗色の髪を面倒くさそうに掻き上げた。その表情はといえば相変わらずの食えない笑顔だ。
「それが関係ねぇって顔か」
 片目しかないザインには、他の表情でも見えたのだろうか。そうぼやいて、ザインはもう一度息を吐いた。
「そんなことより、15のガキに手ぇ出すなよ」
 くすくす笑いながら、フォードがそう告げた。フォードが言うところの『ガキ』が誰を指しているのかはフォードの視線で判った。その視線を睨んでやると、フォードはまた楽しそうに笑った。そして何事もなかったかのように、フォードはすとんと立ち上がった。ただその内股を伝い落ちる白濁した液だけが、何を行っていたのかを物語っていた。
「てめぇが言えたことか。15のてめぇが何してたか、忘れたわけじゃねぇだろ?」
 ザインの台詞にフォードが声を上げて笑う。
「15、ねぇ……。思い出したくもねぇな」
 ただ、そう告げた声色だけが、何を考えているのか判らないフォードの真実を語ったようなそんな気がした。

 フォードの牽制が効いたのかどうか、その後もザインが俺を抱くことはなかった。
 だからといって解放してくれるわけでもなく、俺はこの部屋でほぼ軟禁状態にあった。
 訳が判らない。俺がここにいる意味が判らない。

 そもそも俺は何者なんだろう。クイドは何で俺を拾ったんだろう。
 路上に捨てられた猫を拾うように、路頭に迷っていた俺を拾ってみただけ?
 あの優しさはただの気紛れだった? 気紛れに憐れな子供を抱いた?
 そして、
 そんなままごとに厭きたから、俺を賭けた?
 だから、
 天才賭博師と呼ばれたクイドが、あの日だけ負けたのか……?

 尽きることのない疑問が、次々と湧き上がる。

 そのどれにもザインは答えてくれなかった。ならばいっそのこと、犯すだけ犯して放っておいてくれればいいのに――。

 抱きもしないくせに、時折ふと優しさを見せる。
 名前を呼んで欲しい、そう思うと必ず、「ヴィ」、と呼んでくれる。
 クイドが付けた、俺の名前を――。

 その一方で、ザインはフォードの身体だけは易々と抱いた。まるでそれが当たり前のように。
 なのに、フォードには優しさを見せることがない。
 『恋人じゃねぇよ』、そう言ったフォードの言葉の意味が、傍で見ていると何となく判った。


「どうした?」
 突然そう声を掛けられ、無様にも涙を流していることに気付いた。
 過去の記憶がないからか、時折どうしようもなく不安になることがある。気が付けば、涙が零れてしまうこともあった。そんな時、クイドは何度も俺の名前を呼んでいつまでも抱き締めてくれた。
「ヴィ……」
 クイドでない声がまた、クイドがくれた名前を呼ぶ。
「ヴィ、」
「う、……ひっく……、」
 堰を切ってしまった涙は止まりそうになかった。
 クイドじゃないのに、優しく頭を撫でてくれるその手が、何故かとても嬉しかった。

 かたん。
 その物音に、俺は慌ててザインの腕を振り解いた。顔を上げるとフォードの姿が見えた。
「あ、」
 言い掛けて、言葉を止めた。
 言い訳して何になるのだろう。
 ザインは別に俺をどうこうしたいわけじゃない。ザインの心は俺にはない。
 そう思うと、何故だろう、胸がちくりと痛んだ。
「……フォード」
 フォードの様子をしばし見つめた後、幾分低い声でザインはフォードの名前を呼んだ。そのままぴたりと動きを止める。
 しん、と空気が静まるのが判った。
「な、何だよ……?」
 その空気の重さに耐えられなくて、口を開いたのは俺だった。
 つかつかと歩いてきたフォードは、黙ったまま椅子にかたんと腰を下ろした。その表情にいつもの飄々とした笑顔はなかった。ふうっと1つ息を吐いてフォードが天を仰ぐ。
 どくん、と鼓動が跳ねた。
 悪い予感に冷たい汗が背筋を流れ落ちるのが判った。
 次の台詞を聞きたくはなかった。

「…………クイドが、死んだ」
 天を仰ぐフォードの瞳から、何かが零れるのが見えた。

 クイドが、死んだ――?

 途端、世界が歪んだ。立っていられなかった。
「おい、」
 その声に瞳を開けると、ザインの腕に支えられていた。
「あ、あ、あ……、」
 怖かった。何もかもが崩れていく感覚に支配されてしまう。
「いや、だ……。いや……、」
「ヴィ、」
「呼ぶな、……いやだ。クイド、クイド……」
 訳が判らない。どうにかなりそうだ。
 怖い。
 クイドが消えていく。自分も消えてしまう。
「あ、あ、いや、あ――……、」
 抱き締めてくれる腕に縋りつきながら、指の震えを抑えることが出来なかった。
 ふわり、と身体が宙に浮いたような気がした。気が付くと、寝台の上だった。
「な、何……?」
 かろうじてそう声にすると、1つしかないザインの瞳に見つめられた。
「抱いてやる」
 一言、そう告げられる。
 フォードに視線を送ると、くせのある栗色の髪を掻き上げながら、真っ直ぐにこっちを見ていた。
「それとも、フォード、お前が抱いてやるか?」
 その言葉に、フォードは静かに首を振った。

「泣いちまえ」
 そう促されてやっと涙が溢れてきた。
 腰を抑えられ、ザインのものを捻じ込まれる。
 クイドを裏切る行為を強いられて、泣いた。
 そうして、それを受け入れてしまう自分に、泣いた。


 クイドは何を思っていたんだろう。
 俺を拾い、俺を抱いて――。

 天才的な賭博師と言われたクイドが、あの夜だけ見事に惨敗した理由は今でも判らない。

 ただ、クイドが死んだ夜、俺を抱いた後、
「約束だ。お前のヴィは、何があっても俺が守ってやるから」
 紫煙の向こう、天を仰いで、ザインはそう呟いた。

 いつか、真実を知りたいと、そう思う。

 だって、クイド。俺は、本当にあんたを愛してたんだ――。
                                ……Fin.




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