Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 君が見せる表情 

 第5話 


「ふふふ、」
 セイの姿を瞳に納めて、エルは一際楽しそうに笑った。
 そんなエルを、セイは無表情のまま、見つめた。

 しばらくの間、静寂がその場を支配した。風が木々を渡る音さえも大きく響いた。

「……エル、」
 1つ息を落とした後、セイの声が、エルの名前を呼んだ。それは、少し低めの、それでいて良く通る声だった。

 たったそれだけのことだ。
 だが、エルとセイにとって、それは初めてのことだった。

 セイに名前を呼ばれた。
 ただそれだけのことで、激しく動揺している自分に気付き、エルは視線を泳がせた。そうして、落ち着かない身体を抑え込もうとするかのように、エルは無意識に自分の肩を抱き締めた。その指先は微かに震えていた。
 その様子をじっと見つめ、セイは短く息を吐いた。そうして、1歩2歩近付くと、セイはエルへと手を伸ばした。セイの手が、震えが収まらないエルの手首に辿り着く。途端、エルはびく、と身体を強張らせた。
「エル、」
 セイの栗色の瞳が、エルの顔を覗き込んだ。その視線から逃れようと、エルは小さく首を振った。そうして、セイの腕を振り解こうと、手首に力を込めた。
 その時だった。
「俺は、生涯この学院に留まることを決めた」
 セイの声が短く、そう告げた。

 どくん、と跳ねる鼓動を抑え、エルはかろうじて息を吸い込んだ。
 何が起こっているのか、一瞬理解できなかった。

 だが、巡らせたエルの瞳に、誓約環を失くしたセイの手首が映った。学院長に返したのだとすると、セイの言葉は真実だった。

「な、んで……?」
 思わず漏れたその声は、エル自身も驚くほど震えていた。だが、問い掛けずにはいられなかった。

 セイがどういう経緯でこの学院に来たのかは知らない。
 だが、いずれにせよ、やっと卒業が決まったのだ。この学院から、『エル』から、開放されるのだ。
 それは、セイにとって喜ぶべきことだ。

「それがどういうことか、判っているのか……?」
 セイの姿を視界に捉えようとして上手く出来ず、エルはただ声を震わせた。全てが膜を張ったように遠のいていく。
 ただ、手首をしっかりと掴むセイの手が、ここが現実だと、そうエルに告げていた。
 そうして、
「でも、エルを置いてはいけないから」
 そう声にして、セイは掴んだその手に力を込めた。

 一瞬、エルの視界が、ぐらり、と歪んだ。膝から力が抜け落ちそうになった。
 ただ、よく理解できないセイの言葉だけが、エルの耳の奥で木霊していた。
 セイの腕が、崩れ落ちるエルの身体を支えた。そのまま引き寄せ、腕の中に収めて、セイはもう一度長い息を吐いた。



 どうして……?
 何故……?

 セイに引き摺られるようにして、リュイの部屋を後にし、長い廊下を歩いた。そうして、自分たちの部屋に辿り着いた。
 その間、エルはまとまらない思考の中にいた。
 とさっ、と寝台の上に下ろされ、エルは初めて強張らせていた全身から力を抜いた。そうして、片手で寝布を引き寄せながら、かろうじて息を吐いた。だが、次の瞬間、エルは再び全身を凍らせた。

 セイの手が、エルの手首を押さえ付けていた。

「……何、する、」
 言い掛けて、エルは言葉を失った。すぐ目の前に、セイの表情(かお)があった。
「これからお前を抱く」
 短くそう宣言して、セイはエルの上に圧し掛かった。そうして体格差にモノを言わせて押さえ込むと、セイはエルの首筋に唇を這わせた。エルの喉が、ひゅっと小さく鳴る。
「抵抗しないのか?」
 セイの声に、エルははっと我に返った。そうして、少しだけ身を捩り、セイの視線から逃れた。
「……しない。ただ、」
 少しだけ考えて、エルはそう言葉を発した。既に喉は渇き切っていた。一言発するだけで、口がぱりぱりと音を立てるような気さえして、エルは内心苦笑した。
「ただ?」
「一言だけ、僕を抱く理由を言って欲しい。これは復讐だ、と」
 その言葉に、セイは瞳を細めた。

 復讐だ。
 一瞬脳裏に浮かんだその理由に縋り付くように、エルはもう一度その言葉を反芻した。

 他に理由があってはならない。判ってはならない。気付いてはならない。
 呪文のようにそう唱えながら、エルはちらり、とセイを見た。

「抱く理由を言えばいいのか?」
 セイの声が、若干低くなる。あまり抑揚のないその声に、一瞬ぞくり、と恐怖を覚え、エルは息を呑んだ。
「……ち、がう、」
 湧き上がる恐怖と不安に、エルは思わずそう声にしていた。次の台詞を聞いてはいけないと、エルの全身が警鐘を鳴らしていた。腕が自由ならセイを突き飛ばして逃げ出したい、それが叶わないなら、せめて両手で耳を塞ぎたい。だが、軽く押さえられただけの腕を振り解くことも、乾いた唇に呪文を乗せることも出来ず、エルはただ身体を震わせた。

 セイの瞳が、エルを捉えた。

 そして、一呼吸置いて、
「お前を愛しているから」
 その言葉が、エルの上に降った。

 全身から力が抜けていくことを理解しながら、エルは瞳を伏せた。

「エル、」
 名を呼ばれ、エルはただ小さく首を振った。
「嫌だ」
 拒絶する声が震えた。それでも何度か「嫌だ」と繰り返し、最後に
「……怖い」
 そう声にして、エルは口を閉ざした。

 セイの指が器用に釦を外していく。外気に晒されたエルの肌が僅かに震えた。少しだけ躊躇った後、セイはその肌にそっと触れた。ただそれだけで、エルはびくり、と反応した。エルの身体が、カタカタと震え始める。エル自身にも制御できないその震えは次第に激しさを増し、エルはガタガタと身体を震わせながら、乱れた呼吸を繰り返した。

「エル、」
 そう呼んで、セイは震え続けるその身体をそっと抱き寄せた。
「初めて視線が合ったあの瞬間、心が動いたんだ」
 1つ1つの言葉を確認するようにして、セイは声を紡いだ。
「何かをしたい、生まれて初めて、そう思った」
 実際、それはセイにとって生まれて初めての感覚だった。
 物心ついた時には、セイは他人の心の中が視えた。そのせいか、学院がセイを見つけ出した時、セイは既に心を壊していた。感情というものが欠落していた。学院に連れて来られ、訓練され、能力を制御できるようになった後も、セイに表情はなかった。
 だが、あの日、エルに会った瞬間、セイの心が動いた。エルを苦しめる何かを理解したい、そう感じた瞬間、セイはエルの心を視てしまっていた。

「そのことがお前を傷つけた。だから、口を閉ざした。それでお前が傷つかないのならそれでいい、そう思っていた」
「……なら、」
 言い掛けて、エルは口を噛み締めた。
 『黙れよ』、たったその一言がどうしても言えなかった。
「でも、もう止めた」
 エルを抱き締める腕に力を込めて、セイはそう告げた。
「リュイを抱いて、どうするつもりだった?」
 途端強張るエルの身体を強く抱き締めたまま、セイは低い声で続けた。
「学院を出て、それから?」
 続くその台詞に、全て見透かされていることを悟り、エルはごくり、と生唾を呑んだ。
 一刻も早く学院から出たかった。自ら命を絶てない誓約から解放されたかった。

 何故?

 その理由に思い当たり、エルは心の中で失笑した。

 セイを傷つけたくないのだ。自分という存在を消してでも。

 ――じゃあ、それは、何故?

「させない」
 強い口調で、セイはそう告げた。
「視た、のか……?」
 震える声で、エルは尋ねた。行き着く先は、知りたくない、知られたくない感情だ。
「視なくても判る。お前だって気付いているだろう?」
「――判らない!!」
 叫ぶようにそう声にして、エルは顔を背けた。
 溜め息1つ落とし、セイが晒されたエルの項に唇を寄せる。
「だから、今からお前を抱く」
 吐息とともにエルの耳元にそう告げて、セイはエルの身体を開かせた。


 行為を始めると、エルは抵抗らしい抵抗をしなくなった。その身体を、セイは唇と指で丁寧に愛撫した。胸の突起を舌で転がすと、エルは薄く開いた口から掠れた声を漏らした。
「……ん、」
 セイの手が腰を滑り降り内腿に辿り着く。エルは小さく喘いで、脚を開いた。身体が勝手に反応していた。受け入れるためにはどの姿勢が楽かを、ちゃんと覚えていた。そのことに気付いて、エルは僅かに眉を顰めた。

 抵抗しないのではない。出来ないのだ。
 作業を定められた人形のように、エルの身体は動いた。

「ん、……あ、」
 唇を閉ざすより開いていた方が呼吸をしやすい。身体を強張らせるより力を抜いた方が痛みを感じなくて済む。脚は開いた方が、腕は縋りついた方が、瞳は閉ざした方が……。その全てを、エルの身体は知っていた。
 自動装置のように動いていくエルの変化に気付いて、セイは瞳を細めた。そうして、触れる箇所1つ1つに愛情を込め、エルの名前を呼んだ。
「大丈夫」
 セイの声がそう囁くと、エルの身体がぴくりと跳ねた。
「ちゃんと泣かせてやるから」
 そう告げて、セイは身体を滑り込ませた。

「はッ、あ……、ぁ、」
 口を開き、息を吐いて、エルはセイの侵入を受け入れた。狭いその場所に全て受け入れて、ぎゅっとセイ自身を締め付ける。長い間使っていなかった場所なのに、怖いくらいに身体が覚えていた。どうやれば早く終われるか、痛まなくて済むか、いつでも身体が勝手に動いてくれた。
 それなのに、丁寧すぎる愛撫の後、やっと侵入したセイを感じた瞬間、エルは身体が変化するのを感じた。ぞくぞく、と何かが駆け上がり、それと同時に抑えられない声が上がった。
「……は、あ、……お前、僕に、何、した……?」
 苦しいまでの圧迫感とともにもたらされた感覚に、エルは身体を震わせた。その変化を感じ取り、セイは片脚を抱き上げると、自分自身をエルの奥へとぐぐっと侵入させた。
「泣かせてやる、って言ったろ?」
 上半身を曲げて、セイが耳元で囁く。縋りつく手に力を込めて、エルはそれに耐えた。
「あ、あ、嫌、だ……、」
「まだ、言うか」
 はっ、はっ、と緩急をつけて腰を進めながら、セイは囁き続けた。
「中にいるのは、誰だ?」
「んん、あ……、」
「感じてるだろ?」
「あ、あ、……ちが、う、」
 エルが大きく首を振る。
「認めろよ」
「あ、……い、嫌、……ああッ!」
 突き上げられ、どくん、と自分を解放させ、エルは荒い息を吐いた。


 判っていた。気付いていた。 
 初めて視線が合ったあの瞬間だ。
 一瞬で惹かれた。心を奪われた。

 だが、そんな恐ろしいこと、エルには耐えられなかった。

 同時に、心の奥に触れられた。

 本当に、何もかも認めたくはなかった――。


「……欲しい、」
 その言葉が喉を突いて出てくるようになるまで、エルは何度もセイを感じさせられた。
 そうして、いつしか、セイの予告どおり、涙が溢れていた。


「最初から、泣いてたよ、お前は」
 あやすようにそっと頭を撫でられ、エルは喉の奥から何かが突き上げてくるのを感じた。
「ちゃんと感じていた。傷ついて痛い、傷つけてつらい、ちゃんと感じている」
 その言葉にセイの衣服を握り締めるエルの手が震えた。喉の奥から抑えた嗚咽が漏れた。
「大丈夫、大丈夫だから」
 何度もそう声にして、セイはエルの髪を撫でた。やっと零れたその嗚咽が安らかな寝息に変わるその時まで、セイは何度も何度もそう繰り返した。
 そうして、寝息を立てるその唇にそっと口付けて、
「愛している」
 もう一度そう囁いた。



 やわらかな朝の光が、部屋に射し込んだ。その光の中にセイの背中を見つけて、エルはふう、と息を吐いた。安堵の吐息だった。そのことに驚き、そうして自分の指先を見つめて、エルはもう一度驚いた。その指先は震えていなかった。朝陽を瞳に納めているというのに、だ。
「幸せになりたいから」
 突然、セイの声が響いた。その声に視線を上げたエルの瞳に、朝陽を背に振り返るセイの姿が見えた。
「幸せになりたくて、笑うんだろうな」
 一瞬何のことか理解できなかったその台詞が、あの日の問いに対する答えだと気付き、エルは首を傾げたまま、セイを見つめた。

 あの日、くすくす笑い続けるエルに、『何故笑う?』と訊いたのはセイだ。そして、『それは僕が訊きたい』、そう答えたのはエルだった。

「お前を見ていて、俺はそう思った」
 そう説明を加えて、セイはエルの隣に腰を下ろした。
「俺は笑ったことがない。だが、」
 セイの指が、エルの後ろ髪を軽く引く。弾かれたように顔を上げたエルの瞳に、セイの姿が映った。
「お前のためになら、笑ってやる」
 そう告げて、セイは口元にほんの少しだけ笑みを浮かべた。

「それが笑顔?」
 セイを見つめて、エルはくす、と笑った。
「それじゃあ落第だね」
 そう言って、エルはもう一度笑った。
「そうか?」
 答えて、セイもふ、と笑った。



「……たくさん、傷つけた」
 卒業式を終え、たった1つしかないその門の前で、エルは小さくそう呟いた。緊張気味に息を吐くその肩を、セイの腕が支えた。
 共に時を過ごした友人たちは、今日この門を出て、外の世界に旅立っていく。エルとセイはその門の内側から、その姿を見送った。
 『門まで行きたい』
 そう頼んだのはエルだった。その理由を尋ねることなく、セイはいつになく緊張した面持ちのエルの後を付いて来た。正直、セイが後ろにいなければ、ここまで来られなかったかも知れない。門を前にしてそう思いながら、エルは顔を上げた。
 ライの姿があった。俯くその姿は何処か痛々しい。その理由は知っていた。
「シアからの伝言」
 1つ息を吸い込んでから、エルはそう声にした。その声にすぐ向こうにいたリュイが弾かれたように振り向いた。その姿をちらりと見て、エルはシアからの伝言をライに告げた。
「強いな、シアは。惚れ直せよ、ライ」
 そう締め括って、エルはふわりと笑った。真っ直ぐにエルを見つめた後、ライはこくりと頷いた。
「リュイ、もうすぐカイにも会えるよ」
 何処か嬉しそうに微笑むリュイにも、エルはそう告げた。そうして、エルは1つ大きく深呼吸した。

 たった一言、告げたい言葉があった。喉に引っ掛かって出てこないその言葉に、エルは一旦瞳を伏せ、もう一度大きく息を吸った。
 その時、誰かがエルの名前を呼んだ。

「……エル、」
 再び開いたエルの瞳に、門の外に立つ人物の姿が映った。
「……サン、先輩」
 かろうじてそう声にして、エルはその場に立ち竦んだ。
 門の外で、サンが静かに微笑んでいた。
「来て良かった」
 そう告げるサンは、最後にエルが見た時よりずっと大人になっていた。声も幾分落ち着いたものに変わっていた。だが、やわらかなその笑顔は間違いなくサンのものだった。ひどいことをして失わせた、そう思っていた笑顔がそこにあった。
「心配していた。そこには2度と踏み入れることが出来ないけどね。君の笑顔を見ることが出来て、本当に良かった」
 そう言って、サンは安心したようににっこりと笑った。
「あ……、」
 足を動かすことが出来ず、言葉を紡ぐことも出来ず、エルはただ小さく何度か口を動かした。一向に動こうとしないエルの代わりに、小さく息を吐いて、セイがエルの腕を掴んだ。
「セ、セイ?」
「ついて来い」
 そう告げて、セイは引き摺るようにエルを門のところまで連れて行った。

 驚いたように2人の様子を見ていたサンは、それでもやって来たエルを笑顔で出迎えた。
「エル?」
 間近に聞こえるサンの声に、エルは唇を震わせた。
 セイの手が、微かに震えるエルの肩をとん、と叩く。触れられたその場所から伝わる何かに、エルは意を決して、口を開いた。

「……ごめん、なさい」
 そう言葉に出来て、エルの瞳から涙が一筋流れた。

 その涙をじっと見つめながら、
「幸せになりなよね」
 そう言って、サンはやわらかく微笑んだ。

「ごめん、なさい……。ごめん……」
 堰を切ったように何度もそう声にして、エルは肩を震わせた。その肩を支えながら、セイはふう、と笑った。



「お前が泣きたい時は、泣かせてやる」
 誰もいなくなった門を見つめ、泣き腫らした瞳を擦るエルの隣で、セイがそう告げた。
「……うん」
 ぼんやりとそう答えて、エルは真っ直ぐに門を見つめた。その姿をじっと見下ろしながら、セイは何度か躊躇した質問をエルに投げ掛けた。
「……で、誰? さっきの」
「昔、……好きだった人」
 ぼんやりとしたまま、エルは無意識にそう答えた。途端、ぐいっと肩を引かれ、エルは声を上げた。
「セイ!?」
「……泣かせてやる」
 抗議しようと見上げたエルの唇を、半ば乱暴にセイが奪う。貪るように口付けておいて、それでもまだ足りないという様子でセイは小さく舌打ちをした。
「泣きたくないんだけど?」
 やっと唇を解放されて、エルはくす、と笑った。
「俺が泣かせたい時も、泣かせてやる」
「何それ?」
「いいから来いよ」
 そのまま腕を引かれ、エルは呆れた吐息を落とした。

 そうして、一度だけ門を振り返った後、セイの横顔を見上げて、エルは楽しそうに笑った。


  ……おしまい。




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 後記 


 エルの心の闇に少し怯えつつ、高瀬なりに頑張ったお話です(^^)
 『魔法使いたちの恋』でリュイを苛める性格破綻者エル、彼にごめんなさいを言わせたくて書きました。
 上手く昇華できていると嬉しいです(^^)
 お付き合い下さり、本当にありがとうございました!
     高瀬 鈴 拝