Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 白の桎梏 

 第6話 


 夕焼けが里を染めていく。里で一番大きなその樹に登り、コウは流れゆく雲を見上げていた。ガリルの上空は風が強い。その風を受け、夕焼け色をした雲たちが次々と姿を変えていく。刻々と変化していくこの世界を映し取るかのように――。
 その光景を、揺らぐことのない夏空色の瞳に映し、コウは1つ息を吐いた。

『僕は、あなたを王にする――』

 不思議な響きを持つその声と、決意を秘めた灰色の瞳が、コウの脳裏に蘇る。
「……酷過ぎるだろう……」
 誰に告げるでもなく小さくそうぼやき、コウはもう一度吐息を落とした。

 夕陽が隠れ、薄闇が空を覆い始める。次第に霞んでいく景色の中、視線を落としたコウの瞳に、生い茂る木々の姿が映った。
 生まれたばかりの小さな森だ。ようやくここまで大きくなった。だが、現状はまだまだ厳しい。今攻め込まれたら、小さなこの隠れ里などあっという間に絶滅してしまうだろう。それほどまでにリリアン公国との力の差は歴然としていた。これまで隠れ里が無事だったのは、幾重にも結界を張り、その存在を隠し続けてきたからに過ぎない。
 だが――。

 さわさわと風が木々を渡っていく。その中に、微かな歌声が混じる。
 風の歌声と見事な調和を見せる軽やかなその旋律は、それでいて抑え切れない悲しみを感じさせた。
 スイの境遇を思えば、無理もない。
 兄に捨てられ、敵に買われ、嬲られて――。
「それでも、俺を王にする、とそう決意するのか……」
 天を仰ぎ、1つ息を吐く。そして枝を掴むと、コウは身体を反転させて大地に降り立ち、歌声の方に駆けて行った。


 僅かな月明かりの下、スイは小さなその森を歩いていた。
 微かな視界に映し出されるすべてのものが愛しくて堪らない。
 形の良いその唇から、自然と歌が零れる。すると、精霊たちが嬉しそうに空を舞った。
 水音がスイの耳に聞こえた。風が水の香りをスイに伝える。
 せせらぎに足を入れると、その冷たさに火照った身体がびくっと震えた。ぞくり、と湧き上がる何かに、スイの白い腕が両肩を抱え込む。
「……変なんだ……」
 誰に告げるともなくそう声にして、スイは浅瀬に座り込んだ。そのまま水面に背を預ける。
「身体が、熱い……」
 この数日で、スイを形成する何もかもが怖いくらいに変化した。身体の奥がコウを覚えている。
 瞳を閉ざすと、いろいろなことが一気に押し寄せてきた。ともすれば攫われそうになる意識をかろうじて繋ぎ止める。その瞬間、何かが視(み)えた。
「――――っ、」
 見ていないはずの光景だ。
 だがそれは、いつも確かな質感を持って、スイの意識を呑み込んでいく。

 冷たい石畳を流れていく大量の血。
(――見たくない)
 それなのに、視線はその先を追い掛けていく。
 視界に飛び込んでくるのは、血溜まりの中で事切れた両親の姿。
 そして――、それを見下ろしている兄イルリアン。
 その手には血に染まる剣が握り締められている。
 重く苦しい沈黙の後、返り血を浴びたイルリアンがゆっくりと振り返る。灰色の瞳に幼いスイの姿が映し出される。そして、薄い口許が微かな笑みを作り、言葉を紡いでいく。

『――リリアンを滅ぼせ』、と。

「や……っ、あ、」
「スイ?」
 突然名を呼ばれ、スイははっと瞳を開いた。微かな月の光と木々の姿が飛び込んでくる。そして、巡らせた視線の先、肩で息をするコウの姿が見えた。
「スイ、」
 もう一度、コウの声がスイの名を呼んだ。
 少し低めの、それでいて人を魅了するその声に初めて名を呼ばれ、スイは小さく首を振った。
「スイ」
 その声が悪夢を消し去っていく。
 もしもこの世界に『希望』というものがあるのなら、きっとこんな形をしているのだろう。
 漠然とそう思いながら、スイはコウへと手を伸ばした。だがその直後、コウの言葉にスイは動きを止めた。
「スイ、伝えておくことがある。お前の兄は――、」
「嫌だ」
「いいから聞け」
 コウの空色の瞳が、真っ直ぐにスイを捉える。それを拒絶するようにスイは首を左右に振った。
「僕が兄に切り捨てられたことに変わりはない」
 抑揚の少ない静かな声でそう答え、身を捩ってコウの視線から逃れようとする。それを許さず、細いその腕を掴んで無理矢理自分の方を向かせると、コウは1つ息を吐いた。
「見ろ」
 一言そう告げて、コウは懐から何かを取り出すと、投げ捨てるように大地に拡げた。たくさんの文字が書き込まれた一枚の紙――リリアン王国の地図だ。反射的に視線を反らせようとするスイの顎を掴み、コウの腕が半ば無理矢理にスイの視線を地図へと向かわせる。
「判っている」
 答えを求められることを拒絶するかのように、スイは短くそう答えた。実際、村や街の惨状や犠牲者の数など、今朝の朝議で十分知らされていた。それ以前に、スイはあの半地底都市スピルリーチでもリリアン王国の現状を把握していた。ただ何もしようとしなかっただけだ。
「いや、判ってない」
 そう告げられ、改めて惨状に向き合わされて、スイは眉を顰めた。その様子をコウが無言のままじっと見守る。
 地図に描かれていたのは、あまりにも中途半端な治水工事、繋がらない街道整備。点在する要塞や港に至るまで、何1つ意味を成していない。現在のリリアン王国の気紛れな統治そのものに思えた。
 だが、
「あ……、」
 何かに気付いたのか、小さく声を上げ、スイがふいっと視線を外す。その反応を見て、コウは短く息を吐いた。
「それに気付けたということは、だ」
 空色の瞳が、押し黙ったままのスイを真っ直ぐに見つめた。そうしてはっきりとした声で、コウはスイに告げた。
「お前の兄はお前に未来を託したということだ。よく覚えておけ」
 しん、と空気が静まり返る。濡れたままのスイの髪から水滴がぽた、と零れ、足許に模様を描いた。

 地図には記されていないガリルの場所。そこからスピルリーチへと繋ぐ幾つかの要所。それらを中心に幾つか修正を加えていくと、全く異なる見事なまでの国が完成する。
 愚王だの狂王だのと呼ばれる男の為せる業ではない。綿密に計算された完璧な国だ。これだけの高い能力を持ってすれば、豊かな国を築き治めることが出来るはずだ。
 何故それをしないのか。
 さらに言うなら、ガリルの存在にも気付いているはずだ。それでいて何故放置しているのか。
 導き出される答えは1つ。
 イルリアン王はリリアン王国の存続を望んでいない。だからスイを手放した。

「お前の兄は、お前の切り捨てたんじゃない。お前を逃がしたんだ」
 リリアン王国の行く末から――。
「…………何故、そんなことを僕に教える……?」
 俯いたまま、スイがぽつりと呟く。
「……統治をする気がない兄は、この国を苦しめる。美しいこの世界を壊していく。輝きながら生きている生命を脅かしていく。僕には視える。――僕はあなたを王にする」
 両拳を血が滲む程に握り締め、肩を震わせて、スイはそう言葉にした。涙を溜めた灰色の瞳を、コウに向ける。
「僕を、こんな処まで連れて来て、木々を、川を、空を、風を――、この世界の美しさを教えたのは、あなただ。今更、元には戻れない。知らなかった頃には戻れない」
 大きな灰色の瞳から、涙がぽろり、と零れた。それでも視線を外すことなく、スイはその瞳にコウを映し続けた。
「僕は、あなたを王にする。リリアンを滅ぼして、この世界を守る」
 コウの腕がスイを引き寄せる。肩で息をする小さなその身体を片手で抱き締めて、コウは天を仰いだ。月が柔らかな光を注いでくる。
「――ついて来い。決して後悔はさせない」
 短く、そしてはっきりと、コウはそう言葉にした。
 それで十分だった。
 コウの腕の中、スイはこくりと頷いた。

 風が木々の間を舞い、水面に月光の美しい模様を描き出していく。
 静かな夜だった――。




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