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「はああ……。終わるわきゃないよ……」
図書館の自習室。広いその机に突っ伏して、俺は何度目になるか判らない溜め息を落とした。
視線の先には、積み上げられテキストの山。週明けまでにそれを終わらせろというのが、担任から言い渡された課題だ。
2学期が終わろうというこの時期に、がっくりと成績を落としているんだから、文句は言えない。多額の寄付金を納めている俺の親父から「よろしく」されてしまった可哀想な担任の胃のことを考えると、最早頑張るしかないのかも知れない。
「決めた! 10分休憩!」
決意を小さな声にして、立ち上がる。そのまま、大好きなコーナーに向かって足を進めた。
『語学』――。
変わった趣味だと言われるが、仕方がない。
俺は、語学が好きだ。言葉の語源、成り立ち、その背景にある文化。考えるだけでわくわくする。お陰で、扱える言語は両手の数を軽く超える。ちょっとした自慢だ。
だが、受験戦争には何の役にも立ってくれない。
「何だかなぁ……」
気分が滅入ってきた。
数学も物理も化学も、苦手だ。数字を見るだけで泣きたくなる。まいった。
英語だけなら、有名進学校であるうちの中でも、トップをはれる。受験英語というものにはなはだ疑問も感じるが、言語は移り変わるもの。受験で出てくる少々古い言い回しも、俺は好きだ。
「……他に得意なもん、ねぇかな……」
呟いて、ふと気付く。
体育も得意だ。幼い頃から、運動神経は人よりいい方だと思う。だから、体育祭のブロック長なんて役割が回ってきたし、お陰で随分と楽しんだ。
思い返して、ふふふ、と思わず笑みが零れた。
が、その結果、受験まで残り数ヶ月というこの時期、追い込まれることになっていることを思い出し、笑みはそのまま溜め息に変わった。
「……何、百面相してんの? 臣(おみ)」
突然声を掛けられ、心底驚いた。思わず、手にしていた『ギリシャ語』の本を床に落としてしまうほどに。
「――千晴(ちはる)」
そう呼ぶと、俺が落とした本を拾いながら、千晴はくすくすと笑った。
千晴は、俺の幼馴染だ。家が隣同士で同じ年なんだから、当たり前といえば当たり前なのだが、幼い頃はいつも一緒に遊んだ。
そう、あの日までは――。
7歳の時だ。千晴に告白され、キスされた。
『みいくん、大好きだよ』という台詞に、『はるちゃんなんて、大嫌い』と答えたのは俺だ。
驚いたのと、照れくさかったのと……。
そうして、そのことを、後で、ものすごく後悔した。
だって、あの日から、千晴は姿を消した。警察も来た。テレビでも大騒ぎになった。でも、千晴は見つからなかった。
千晴が帰って来たのは、10年後。昨年のことだ。
ひょっこり帰ってきた千晴には、10年分の記憶がなかった。何があったのかは、今でも判らない。
千晴の両親はもともとざっくばらんな性格で、小さなことには全く拘らず、1人息子の帰還を素直に喜んだ。1年経った今では、離れていた10年を全く感じさせないほどだ。
俺だけが、10年前のあの日のことを、気にしている――。
「臣、課題、終わったの?」
「ん? 無理」
そう答えると、千晴は呆れ顔で笑った。
「そんなんじゃ、医学部入れないよ?」
ごもっともである。今のままじゃ、希望している大学は無理だろう。
でも、正直言えば、ランクを落とせば入れないわけじゃない。
医者になりたいわけじゃないが、親父の跡を継がなきゃいけない以上、最悪何処かの医学部に入れられるだろう。――千晴と違う大学に。
「……千晴、お前、何になりてぇの?」
少し突然だったろうか。その問いに、千晴は、少し茶色がかったその瞳を、一瞬驚いたように見開いた。
でも、冗談で返さない方がいいと判断してくれたのか、そのまま「考え中」になった。
「お、おい、千晴?」
突然、無言のままくるりと背を向けて、千晴が階段の方へと駆け出す。俺は慌てて、その背中を追った。
千晴は時折、奇妙な行動を取ることがある。10年間、神隠しにあっていたのだから、仕方がないのかも知れないのだけど。
また、消えられたら困る――。
「おい! 千晴ってば……!」
追いついて肩を掴むと、笑顔とともに、1冊の本を差し出された。
「これ、読んでみて」
千晴が笑う。
何だってんだ。そんな暇あるか。
言い掛けて、その本に釘付けになった。
「……何だ、この文字」
この『俺』が、見たこともない文字が、そこにあった。
「臣の反応で、僕のなりたいものが変わるから」
不思議人間千晴が訳の判らないことを言い放つ。
結局、誘惑に勝てず、その本を借りた。
――そしてその夜、可笑しな夢を見た。
「ここは、何処だ……?」
図書館だ。それは判る。だが、全く見覚えがなかった。
その上、並ぶ本の背表紙に書かれた文字、その全てが不可解で理解できない。
この俺が、だ。
「千晴の本……」
手の中にある本に目をやる。
眠りに就く直前まで眺めていた文字だ。間違いない。
これは、夢、か――?
それにしては、リアル過ぎる質量に、背中を冷や汗が流れた。