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そこには、何もなかった――。
ただ、存在していたのは、
全てを覆い尽くしていくような深い闇と、
誰かが、喚(よ)ぶ声。
「……ロイ?」
腕の中にいたはずの存在の名を呼ぶ。
暗い部屋の中。
視線を巡らせ、窓辺にその存在を確認すると、ジークは一つ安堵の息を吐いた。
その存在は、寝乱れた衣装のまま、窓辺に腰を落とし、蒼い月を見上げていた。
流れる風に揺れる、少し長くなった黒髪。
衣装の間から覗く、艶やかな白い肌。
月を見上げる、綺麗な青灰色の瞳。
整った鼻梁に、形の良い薄い唇。
「何やってんだ……」
小さく舌打ちした後、寝布を持って立ち上がり、ジークが窓辺に近付く。
そうして、窓から差し込む冷たい風に体温を奪われたであろうロイの身体に、静かに寝布を落とした。
とその時、月を見上げたままのロイの横顔に、ほんの少しの違和感と胸騒ぎを覚えて、ジークはロイの名を呼んだ。
「……ロイ?」
返事がない。
次第に大きくなる胸騒ぎを打ち消すかのように、ロイの腕を掴んで自分の方を向かせる。
ゆっくりと視線を上げて、ジークを見上げてくる、綺麗な青灰色の瞳。
とてつもなく美しいその双眸が、ジークの漆黒の瞳を覗き込み、ジークの瞳に映る自分の姿を確認して、満足げにすぅっと細められる。
そうして、
ゆっくりとした動作で、
その美しすぎる青灰色の瞳を細めたまま、
口元にだけ薄笑いを浮かべて、
『ロイ』が、ジークに手を伸ばしてきた。
「……ロイ?」
そのまま絡め取るようにジークの首筋に手を回し、『ロイ』が口付けてくる。
「……おいっ」
ジークの制止の声を聞き入れることなく、『ロイ』は冷たい舌を差し入れた。そのままジークの熱を奪い取るかのように口腔内を貪る。自分を絡め取る腕と舌にぞくりとした冷気を覚え、ジークは首を振った。そのまま細い肩を掴んで、『ロイ』の身体を無理矢理引き剥がす。
「……お前、誰だ?」
低い声でそう告げ、ジークは鋭い漆黒の眼差しで『ロイ』を見据えた。
細められた青灰色の双眸がその視線を受け止める。
静寂だけが、刻(とき)を支配していた。
ただ、窓から流れてくる風が時折二人の髪を揺らす。
互いに視線を外すことなく、どのくらい経ったのだろう。
不意に『ロイ』は大きく頭を振って黒髪を掻き上げ、その類稀な美貌でジークを一瞥した後、青灰色の双眸を閉ざした。
「……ロイ?」
ゆっくりと開かれる青灰色の瞳。
それはいつものロイの瞳で。
安堵と焦燥感に、抱き寄せるジークの腕に力がこもる。
「ジーク、痛い」
「……ロイ」
漆黒の双眸に、少し非難の色を帯びたきつい青灰色の瞳を映して、そうして大切な存在を確かめるようにジークはもう一度ロイの名を口にした。
「何て顔をしてる、ジーク」
大きく一つ息を吐いてそう答え、ロイがジークの褐色の短髪に指を絡めてくる。
「大丈夫。俺は平気だから」
自らに言い聞かせるかのように何度かそう告げ、
「お前が、無理をさせなければ、な」
そう付け足してくすくすと笑い出すロイの言葉の意味を察して、ジークがわざと大きく溜息を零す。
「……馬鹿言え」
一言そう告げて、もう一度、ロイの痩身を抱き寄せた。
「お前を、連れて行かせはしねぇ」
耳元で囁く決意は誰に向けたものか。
青灰色の瞳にほんの少しだけ憂いを乗せて、
そうして口元にほんの少しだけ嬉しそうな笑みを乗せて、ロイは静かにジークの背に手を回した。
セレンを後にして、半月近くが過ぎようとしていた。
ロイの中で、何かが変化しようとしているのをジークは感じていた。
それが何を意味するものか。
『俺が俺でなくなっても……?』
初めてロイを抱いた夜、ロイが口にした台詞。
聡いロイのこと、自分の中の変化に気付いていない筈はなかった。
それでも。
『お前と行きたい』
そう答えたロイ。
腕の中で静かに寝息を立てるロイの黒髪にそっと触れる。
「……ジーク?」
少しだけ身じろぎ、答える澄んだ声。
それに応えるかのように、ジークはロイの白い頬に唇を落とした。
倦怠感に呑まれるかのように、ロイが再び規則正しい寝息を漏らす。
ほんの少しだけ、笑みを浮かべて。
白み始めた空が、夜明けが近いことを告げていた。
ロイの艶やかな黒髪に朝の光が零れる。
その黒髪の感触を指先で確認しながら、ジークは漆黒の瞳でまっすぐに窓から差し込む淡い光を見据えていた。
新しい朝が、始まろうとしていた――。