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所蔵文化財
宇和島伊達家文書 目録について

 もと宇和島藩主であった伊達家に伝来する文書は、大きく 「甲」「乙」「丙」「丁」「雑」「戊」 の5つの分類で整理されています。

 この他、伊達家家記編輯所において作成された 「稿本」 も所蔵しています。

 宇和島伊達家文書全体の概要については こちら をご参照ください。



宇和島伊達家文書 「甲」「乙」「丙」 の目録について

 旧宇和島藩主伊達家伝来の文書は、もとは伊達家の東京邸および宇和島邸の2ヶ所で保管されていたが、太平洋戦争の開戦後、順次東京から宇和島に移された。

 御重書目録「甲」「乙」「丙」は、昭和18(1943)年8月に東京邸から宇和島邸へ移管された文書群(朱番号のもの)と、宇和島邸在来の文書群(黒番号のもの)とをあわせて、戦中および戦後しばらくあたりの時期に宇和島の伊達家事務所で作成されたものである。
 また昭和50年代以降、順次原本照合がなされ、加筆・修正がなされている。

 「甲」「乙」「丙」は、それぞれ内容によって以下のように大別された上、「番号」「名称」「数量」「容器」「摘要」の項目で整理されている。

 甲  約2,590点
 宸翰及詔勅類/御判物類/御系譜及御履歴類/御辞令書類/御家憲類/公文書及上書類/御直書類/御書翰類/御記録及御日記類/御図書類

 乙  約2,925点
 宸翰及詔勅類/御系譜及御履歴類/公文書及上書類/御書翰類/御記録及御日記類/御図書類

 丙  約3,116点
 御系譜及御履歴類/御辞令書類 附賞状謝状類/公文書及上書類/御書翰類/御記録及御日記類/御図書類


宇和島伊達家文書 「丁」 の目録について

 丁は、藩政史料の核ともいうべき史料群である。

 昭和2年5月の伊達家による調査で「御日記類」「雑御書類」に大別して整理され、その後、昭和50年代の終わりに、史料の補修と番号の決定がなされたようである。
 史料番号は、丁1~12が「御日記類」、丁17・18が「雑御書類」に該当する。(丁13~16は欠番)

・「御日記類」(丁1~丁12)は、
「御用場」「御勤方」「御小姓頭中」(明治期は「御近侍長中」)「御目付中」「御祐筆所」にて作成された「日記」「大控」「御用伝帳」である。

 ※ 参考 宇和島藩藩政職制
 以下は、愛媛教育協会北宇和部会編『宇和島吉田両藩誌』(昭和62年12月25日発行。名著出版。大正6年10月25日に発行されたものの復刻版。)中、「第三章 藩政職制」「第一節 宇和島藩」275頁、277-278頁からの抜粋である。

勤方
「禁裏・幕府・宮家・堂上・各諸侯其他外部に対する一切の事務を管掌せり。」
小姓頭
「近侍頭なり。藩主身辺一切の事を処理せり。数人あり。同じく月番を立て当務を処理し順番に宿直す。近習・小性(ママ)・医師等を差配し、鑓奉行・持弓頭・持筒頭・徒支配・野奉行・厩支配等を分任せり。」
目付
「平時は藩中一切の監察をなし、近世刑獄の事をも管掌せり。軍陣にありては軍使を勤む。」
祐筆
「内外筆礼の事に任ず。」


・「雑御書類」(丁17・18)は、
丁17は、 (ハ)藩公関係/(ヒ)御巡見関係/(キ)宗門関係/(ホ)法令書抜類纂/(ヲ)大控/(記)御用場 御部屋記録
丁18は、 (記)防長御出陣控ほか諸記録/(コ)御用場 公儀被仰出控/(ト)御届控/(ツ)御日記(幕末・明治)/(ユ)由緒書(家名のいろは順)  として整理されている。


宇和島伊達家文書 「戊」 の目録について

・ 「戊」の目録は、平成11年(1999)4月~平成17年(2005)3月に行われた宇和島伊達家関係史料調査(国庫補助事業。事業主体は宇和島市立伊達博物館)において作成された。

  調査は、内田九州男愛媛大学法文学部教授(当時)が主任調査員、伊達博物館の学芸員二名が調査員となり、調査補助員として愛媛大学の大学院生・学部生・卒業生多数の参加を得て行われた。

  成果は、平成17年(2005)3月に『宇和島伊達家関係史料調査報告書』として刊行されている。

  以下の説明は、本報告書の調査報告部分から必要箇所を要約、抜粋(「」部分)したものである。

 宇和島伊達家文書「戊」について

「第二次世界大戦まで東京の伊達家旧藩邸の伊達家家記編纂所に保存されていた。
東京での戦火が激しくなったため、この史料群は宇和島へ疎開させるべく国鉄汐留駅で貨車に積み込まれた。しかし駅が空襲にあってしまい、史料群も焼失したと思われていたが、奇跡的に罹災から免れ、その後宇和島へ疎開させられたのであった。
宇和島では未整理のまま長持ち四棹に入れて保管されてきたものである。」

・ 「戊」の特徴

「戊」は、「実は伊達家の文書だけでなく、相当数の家老桜田家(注)の文書(以下「桜田家文書」とする)(保存会注 伊達博物館所蔵の桜田家文書とは異なることに注意。区別については(注)を参照のこと)を含み、この両者が渾然一体となっている。
桜田家文書には「桜田」と読める黒印が押されている場合が多いが、この印が押されていなくても内容面や人名等から伊達家文書でなく、桜田家文書と判断されるケースもある。またいずれに属した文書か判断に迷うケースも多い。
こうして今回の史料群は、それを伊達家文書、桜田家文書と区分することはせず、一括して伊達家文書として扱わざるを得なかった。」

(注)
 「桜田家は、初代玄蕃基親が伊達秀宗に従って宇和島に入り、侍大将を勤めた。石高1,950石(家禄1,700石、与力分250石)であった。
 二代監物親宣は基親の娘婿で桜田家を相続。基親死亡年に実子数馬(親茂)が生まれ、数馬は慶安4年(1651)に番頭役、翌年承応元年(1652)に新知1,000石を与えられた。
 この結果、監物基親の桜田家が本家、数馬親茂の家が分家という関係となった。
 宇和島市立伊達博物館所蔵の桜田家文書はこの数馬親茂系続の桜田家のものである。
 また伊達家文書と混清している桜田家文書は本家桜田家のものである。」


・ 「戊」に家老桜田家の文書が含まれる理由について

貼札と思われる史料(整理番号戊04-0701)に、
「明治四十三年三月 桜田ヨリ御買上紙面之内、同家へ関スル書類」
と書かれている。
この貼札らしき紙片は「もともとは書類の上に貼り付けてあったか、括りの一番上に置かれていたものであろうが、今は単独のものとなっている。そのため元の書類の分量は知り得ないが、この紙片に明治四十三年(1910)に桜田家の書類が伊達家に買い上げられたことが示されている。文面から買上書類の内、桜田家に関するものにこの紙片が付されたのであって、他の書面もあったことが推測される。恐らくこの年に桜田家の文書が一括で伊達家へ譲渡され、そして保管されていた長い年月の間に、伊達家文書と混淆してしまったのであろう。」



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