IZUMINO-izm 17年04月号より
井戸を掘ったひと

先月の本欄で「偉大なるワンパターン」について考察した。要するに、ある理念を実現しようとするなら、それを実現しようとする人は、その理念をくどいほど繰り返し表明する必要があるのではないかということだ。こう書くとき思い出すのは、本欄2005年2月号(12年前!)にも書いた故川本輝夫氏(1931−1999)の座右の銘のことである。水俣病患者運動のリーダーであった氏の座右の銘は「熱意とは事あるごとに意志を表明すること」だった。

以下、氏を追悼する「私家版」ビデオの紹介ページからの引用である。


チッソが噴煙を全市にまき散らしていた1970年、患者はわずか116名だった。父親を急性激症で悶死させ、自身も未認定患者だった彼は、埋もれた患者を訪ね歩き、時に重症の胎児性患者に会い、申請を勧め、その痛みを背負って動き続けた。こうして1971年のチッソ本社前での長期座り込み闘争へと続く。

1973年、川本ら患者はチッソと直接交渉の末、年金、医療費を含む協定書を締結した。これは今後、認定される患者にも全て適用される画期的なものだった。これに勇気づけられた潜在患者は次々に申請しはじめた。その急増に、企業城下町水俣の市民は、チッソ擁護、患者憎し、に傾いた。その憎しみは、申請運動の矢面、川本に向けられた。 (略)

1990年代、(略)彼は市議会議員になって活動を続けるが、患者自身かつての運動エネルギーを失い、内部の分裂もあり、彼は孤立を深めていった。 (略)

思えば独自に少数の同志の患者と東京で直接交渉の井戸を掘ったからこそ、水俣病事件は全国に知られ、百余名に過ぎなかった認定患者が40年後、2,263人に、“準”患者は10,305人に成り得たのだ。 急逝の直前、市議会での「水俣湾を世界遺産に」との発言が最後の言葉だった。「負の遺産として、かの世界遺産のアウシュビッツ、ヒロシマと同じく、ミナマタを人類の歴史に永久に止めよ!」それが彼の遺言になった。


さて、私は(あなたは)、これまでどれだけ井戸を掘っただろう……?

回想・川本輝夫 ミナマタ ── 井戸を掘ったひと:http://www.cine.co.jp/detail/0066.html


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