Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 湖底に射す陽の光 

 第1話 


 急ぎ足で駆ける少年の足元で、降り積もった枯れ葉が、かさかさと乾いた音を立てていた。少年の背で無造作に纏められた黒髪が揺れる。何処か緑がかったその黒髪は、それでも艶やかさを失っておらず、そのことが余計に手入れされていないことを惜しませていた。あちこち泥で汚れている肌も、よく見ると本来の透き通るような白さが見え隠れしている。そうして、時折きょろきょろと辺りを見渡す翡翠色の瞳は、陽の光に透ける若葉のようで、隠しきれない美しさを偲ばせていた。
「あ……」
 何かを思い出したのか、小さくそう声にして、その少年、セラティンは足を止めた。そうして、すうーっと大きく1つ息を吸い込んでから、セラティンは、ぱたん、とその場に仰向けに倒れ込んだ。
「――今日は僕の誕生日だ」
 枯れ葉のベッドに身を委ねながら、ぽつりとそう呟く。
 誕生日、といっても、それが本当かどうかは、セラティン自身にも判らなかった。今の養い親に拾われた時握り締めていたという古びたお守り(アミュレット)に、『セラティン』という名前とともに書かれていた日付だ。
 本当に誕生日なのだとしたら、セラティンは今日で17歳になる。ただ、同じ年頃の少年たちと比べると、セラティンはいくらか小柄で痩身な少年であった。もっとも、育ち盛りに、1日2食、僅かなパンとチーズのみの生活では、大きくなりようがないのかも知れない。それでも、セラティンは今の生活にあまり不満はなかった。粗末な衣服に僅かな食事、山のような仕事を与えられても、今日まで育ててくれた養い親には感謝しきれないほど感謝していた。
 ただ、時折、堪えようもなく、淋しさが込み上げて来ることがあった。そんな時、セラティンは必ずこの森に足を運んだ。
「綺麗だね……」
 誰に告げるともなく、そう声にして、セラティンは空を見上げた。色付いた葉たちが、ひらひらとセラティンの上に舞い降りた。そうして、木々の間からは、惜しむことのない陽の光が降り注いだ。
「んー、美味しい」
 澄んだ大気を胸いっぱいに吸い込んで、セラティンは瞳を伏せた。
 その時、
「……!」
 ぱきっ、と小枝が折れる微かな音がした。小さなその音を、セラティンは聞き逃さなかった。瞳を伏せ、微かなその気配に意識を集中させながら、セラティンは胸が高鳴るのを感じていた。
 この森には、『誰か』がいる。
 セラティンがそのことに気付いたのは、いつだったろうか。もう忘れるくらい遠い昔のことだ。
 養い親に折檻され、痛む身体に涙を堪えた夕暮れも、込み上げる淋しさに耐え切れず、膝を抱えた朝霧も、ここに来れば姿を見せない『誰か』がじっと見守ってくれた。それだけで、セラティンの心は随分と癒された。
 だから、セラティンは、この森が好きだった。僅かな時間を見つけては、ここへ足を運んだ。
 ただ、1つだけ、懸念があった。
 それは、森の中心にある小さな湖だった。セラティンは、その湖が何よりも怖かった。
 養父母たちの話では、セラティンはあの湖の辺に捨てられていたという。それも血塗れだったらしい。赤子であったセラティン自身も深い傷を負っていたそうで、その跡は今でもしっかりとセラティンの左手の甲に残っていた。その上、養父母たちがセラティンを見つけたとき、湖の中に消える人影も見たらしく、養父母たちはセラティンのことを、『実の親に殺されかけた、無理心中の生き残りだ』とそう語った。
 だが、水が怖い理由がそれだけではないことは、セラティン自身にはよく判っていた。
 ――水に、惹かれるのだ。
 その湖に近付くと、まるでそこに故郷でもあるかのような、そんな郷愁に近い気持ちがセラティンの中には込み上げて来る。セラティンは、その理由を知るのが怖かった。
 だからいつも、出来るだけ湖に近寄らないように、遠回りをして帰宅した。そうして、随分と遅くなってしまい折檻されたことも度々だった。
「……まずい」
 いつの間にか、陽が傾いていた。
「また来るね」
 慌てて起き上がると、セラティンは独り言のようにそう声にした。そうして、乾いた枯れ葉の上を、全速力で駆けた。

「……我が君」
 セラティンが去った後、大樹の陰からぽつりと呟く声が響いた。そこには、1人の青年の姿があった。セラティンの背中を見送るその眼差しは慈しみが溢れ、その青年がどれだけセラティンを大切に想っているかを物語っていた。
 ただ、セラティンによく似た艶やかな黒髪の間からは、魚のひれのような耳が覗き、大樹に置いた白いその手には、明らかな水かきが存在していた。
 それらは、その青年が『人間』という種族に属さないことを証明していた。




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