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王都が一望できる小高い丘。
気が付けばハインツはその丘に向かっていた。其処は、16歳で1人王都に出て来てから、何度も足を運んだ場所であった。その丘から見える夕陽は、ハインツ自身をを紅く染め上げ、街と同化させくれる、そんな錯覚を覚えたものだった。そして、何かあるごとに慰めてもらうかのようにハインツはその丘を訪れていた。
「……俺も成長してないよな」
きつい坂道を上りながら、ハインツはそう一人ぼやいた。
久しぶりにこの丘に来てしまった理由は明らかだった。
「殿下に啖呵きった割には……」
現実を突きつけられ、大きな衝撃を受けた。
ラインハルトの婚約が、こんなに自分を動揺させるとは思っていなかった。
「情けねぇの……」
自分自身に悪態を吐いてみるが、俯いた足元にぽたぽたと落ちてしまう水滴が、隠したはずの感情を露にさせる。
どうしてだろう。
何故、ラインハルトなのだろう。
この5年間、何度も繰り返した問いに、未だ答えは見つからない。
ただ、断ち切ろうとしても、一挙一動に目を奪われる、惹きつけられる。ラインハルトの仕草一つ一つが、滑稽なほど心の中に染み入ってくる。ほんの些細な一言で、胸が躍るほどに――。
不意に視界が開けた。
そして、辿り着いたその丘の頂上でハインツは足を止めた。久しぶりに目にした夕陽はやはり美しかった。ラインハルト婚約の噂を訊いて以来、苦しいほどに湧き上がってくる感情さえも全て呑み込んでくれる、そんな錯覚を感じさせてくれた。その夕陽に身を委ねるかのように瞳を細めたハインツの視界に、先客の姿が映る。
「……ラインハルト」
夕陽に向かって座る後ろ姿は何処か淋しげで、ハインツはそれ以上近付くことが出来なかった。その場に立ち竦んだまま、ハインツはその後ろ姿を見つめた。
「ハインツ」
背を向けたままのラインハルトにいきなり名を呼ばれ、ハインツの心臓はどくんと跳ねた。大きく一つ深呼吸する。そうして笑顔を作って、ハインツはラインハルトの元へと駆け出した。
「よう」
短く声を掛けて、ハインツはラインハルトの斜め後ろに立った。隣に腰を下ろすことは出来なかった。ましてやラインハルトの顔を見ることなど到底無理な話だった。今こうして傍にいるだけで抑え込んだ筈の感情が溢れてそうになる。
全てを押し隠したまま、ハインツは真っ直ぐに夕陽を見つめた。そうして、一度小さく息を吸い込んで、ハインツは何とか口を開いた。
「……綺麗な夕陽だな」
出したその声が思ったより震えているのを感じ、ハインツは内心狼狽した。
まるで杯に目一杯注がれた水面のように、隠し続けてきた想いが危うい均衡を保っている。
早くこの場を去った方が良い。頭の何処かでそう思いながらも、大地に根が生えたかのように、足を動かすことは出来なかった。意識すればする程、呼吸が乱れる。それを抑え込むかのように、ハインツは大きく深呼吸した。
「……おめでとう」
言わなくてはならないその言葉をやっと声に出来て、ハインツは安堵の息を漏らした。だが、それも一瞬のことで、返されたラインハルトの台詞に、ハインツは吐きかけた息を呑み込んだ。
「断ってきた」
「……何、だって?」
ラインハルトの言葉に、ハインツは睨み付けるように見つめていた夕陽からラインハルトへと視線を映した。
「婚約の話だろう? 断った」
そう告げるラインハルトの声はいつもより若干低く思われた。夕陽を見つめたままの横顔も、何処かラインハルトらしくない不機嫌さを纏う。
「あいつがいたら、違っただろうか……?」
誰に告げるともなく呟かれたその言葉に、何よりラインハルトらしからぬその様子に、ハインツは戸惑いを感じていた。
ラインハルトという人間は、大概が『品行方正』、『忠肝義胆』、『質実剛健』といった言葉で評価される。面白みがないと陰口を叩かれることもあるが、大抵の人間が尊敬の眼差しを向ける、そういう人間である。騎士隊長である父親も息子のその評価に至極満足している。
しかし、ハインツが惹かれているのは、そこだけではなかった。強がりの中に隠した哀しみや辛さを見抜き、相手を思いやることが出来る、そんなラインハルトだから、心の中に染み透るように入って来るのだとそう思う。そしてそれは、ラインハルト自身が父の期待に副うべく努力を積み重ね、辛さを押し隠してきたからだと、今ではハインツにもよく判っていた。
それでも、これまでラインハルトが弱音を吐くところは見たことがなかった。
夕陽を見つめるラインハルトの横顔に、ハインツは言いようのない不安を覚えた。
「……あいつって?」
泣き出しそうにも見えるラインハルトを捨て置くことなど出来ず、ハインツは意を決してその隣に腰を下ろした。
「ジーク」
ラインハルトがそう名前を口にする。
その名前はハインツも聞いたことがあった。
ジークディード=フォン=アウエンバッハ。ラインハルトの異母弟である。ラストア史上最年少の14歳で近衛隊入隊を成し遂げた神童としてその名を留めている。しかし、ハインツが騎士隊に入隊した時には既に隊を除隊しており、面識はなかった。
ラインハルトにはその他にもう1人姉がいたらしいが、その姉も既に他界していると聞いたことがあった。
「異母弟(おとうと)だっけ?」
ラインハルトの横顔に問い掛ける。
「今、何してんの?」
ラインハルトの表情が曇るのは見て取れたが、ハインツはそう踏み込んだ。ラインハルトにこんな表情をさせる原因が何か知りたいという気持ちもあったが、それより何よりただ『聞いてもらえる』その事実がどれだけ心を軽くするか、ハインツはラインハルト自身から学んでいた。
「そうか、お前は知らないんだったな……。この話は、この国では禁忌だからな」
ラインハルトの言葉のとおりだった。ジークのことは何度か話題に上ったことがあったが、何故除隊したのか、今何処にいるのか、誰もが口を固く閉ざしていた。
「聞かせてくれるか?」
そう促すハインツの声に、夕陽に染まるラインハルトの男らしい唇から吐息が零れた。しばらくして、その唇が言葉を紡ぎ始める。
「あいつはヴァイラスを追って、国を出た。もう6年が経つ」
ヴァイラス、銀の髪を持つ神官、魔を喚(よ)ぶ存在――。
ハインツも噂は聞いたことがあった。その名前が出て来たことに少なからず動揺する。
「ジークには兄らしいことをしてやったことがない。あの時も、一人で悩むあいつに私は声すら掛けなかった……」
夕陽を映すラインハルトの漆黒の瞳が、哀しげに揺れる。堪らずハインツはラインハルトを抱き締めた。その哀しみの少しでも引き受けたい、そう願う。
「あんた、母親を悲しませたくなかったんだろ?」
不器用な優しさは、確かに異母弟を傷つけたかも知れない。それでも実の母親の心の平穏のためには必要だった。そう知った上での苦渋の選択だったのだろう。
「いいんじゃねぇ? 俺はそれもありだとそう思うぜ?」
義兄もそうだったのかも知れないと、今ならそう思えた。いつもほんの少し哀しげに自分を見つめていた義兄の眼差しを思い出し、ハインツは微かな笑みを浮かべた。
「……そうかな」
くすりと笑みを浮かべるラインハルトに大きく頷いて見せ、ハインツはその大きな背中をぽんっと叩いた。
「そういうことにしとけよ」
ラインハルトの笑顔にどきりとしながら立ち上がり、一歩下がって距離を取る。
「で、ジークがいたらどうだって?」
座ったままのラインハルトを見下ろして、ハインツはそう尋ねた。こうなったら、とことん付き合ってやろうと、そう覚悟を決めていた。その時は、後で後悔することになるとは知らなかった――。
「……私が跡を取らなくても良かったかな、と」
ぽつりとそう言って、ラインハルトは視線を上げた。見下ろすハインツと視線がぶつかる。
「へ? 何言ってんだ。跡継ぐために、あんた今まで頑張って来たんだろ?」
「そうだ」
「親父さんもそのつもりだろ?」
「そう思う」
「じゃ、何で……」
ハインツは訝しげにラインハルトを見つめた。
「もしかして、跡継ぎたくないから、だから、婚約も断ったのか? 何考えてんだ、あんた」
見上げるラインハルトの瞳が細められる。次の瞬間、伸ばされて来た手に手首を掴まれ、ハインツは明らかな驚きの表情を浮かべた。知らず、一歩下がろうと試みる。
「じゃあ訊くが、お前は何故此処に来た?」
強がりを見抜くラインハルトの瞳がハインツを見据える。
「……此処には、いつも来ている。他意はない」
ラインハルトから視線を外し、ハインツはかろうじてそう答えた。
「……私の目を見て答えろ」
その言葉にハインツの視線が泳ぐ。
「お前は相手の目を見て嘘を吐けない人間だからな」
「……そういうあんたはどうなんだよ? 何で此処に来たんだ?」
精一杯の虚勢で、ハインツはそう問い返した。ラインハルトの顔を見ることは出来なかったが、ラインハルトの視線だけを痛いほど感じた。
「お前が来ると、そう思ったからだ」
静かな声で、ラインハルトはそう答えた。
その背後に隠された意味は知りたくなかった。
続く台詞など聞きたくはなかった。
思い切り腕を引き寄せて、ハインツは手首を掴むラインハルトの手を引き離した。そのまま一歩二歩後ろに下がる。
「もう話すことはないっ!」
そう言ってハインツは駆け出した。
それから、10日あまりの時が流れた。遠くからラインハルトの姿を見ることはあったが、それ以上近付くこともなかった。会おうとしなければこんなにも遠い存在なのだと改めて知った。
「ハインツ!」
ぼんやりとしていたら、背後からそう声を掛けられ、ハインツは驚いて振り返った。振り返った先に隊長の姿を認め、礼の姿勢を取る。
「お前、何をした?」
その問いの意味が判らず、ハインツは首を傾げた。
「お前に辞令だ」
「はい?」
近衛隊に所属してからというもの、配置換えなどとは縁がなかった。近衛隊は少数であり、任務は主に王族の警護である。それには信頼関係が必要であり、大抵は王族の中で決まった人物を警護し続ける。辞令、とはどういうことか、ハインツはますます首を傾げた。
「その様子では心当たりはないようだな? いいか、よく聞け」
そう勿体ぶって、隊長は一つ深呼吸した。
「お前は、明後日からバルト港の警備の任に就くことになった」
「はあ?」
驚きを隠せない声が上がった。
「しかも、元老院の決定だ。これはフリードリヒ殿下でも覆せんぞ」
そう言って、隊長はハインツの目の前で頭を抱えた。
「あの殿下の面倒を誰が見るんだ……」
とか何とか失礼なことをぼやいている声がかろうじて耳に届く。
驚くしかない辞令の原因は判らなかった。ただ、ラインハルトから遠ざかれる、そのことを考えると、ハインツには有難い辞令にも思えた。