Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 声に出来なかった想い 

 第9話 


「ああーーーっ!!」
 ラストア王城に響き渡るフリードリヒの声に、新米騎士は驚いて顔を上げた。先輩騎士と思われる青年たちが、落ち着くよう促す。
「昨日、ハインツ、髪切ってたぜ?」
「ああ、それでか」
 先輩たちの会話の意味が判らず、新人騎士はもう一度声がした窓の方を見上げた。



 ハインツが近衛隊に入隊してから、もうすぐ5年が経とうとしていた。
 あまり目立たなかった17歳の若輩者が近衛隊に入隊する、それもどうやら第2王子であるフリードリヒのお気に入りらしい、ということで、当時はかなりあることないこと誹謗中傷が飛び交った。が、幸いラストア王国騎士隊は何より実力を重んじる風潮があった。近衛隊入隊の条件である幾つかの試験をこなしたハインツに文句をつける者はいなかった。5年経った今でも近衛隊内では最年少であることに変わりはなかったが、フリードリヒ王子のお目付け役としてもハインツは重宝されていた。

「もったいない! 何で切ったの!」
 そう叫び、フリードリヒはそれは見事に短く刈られたハインツの黒髪に触れようと手を伸ばした。当の黒髪の主は、その手から逃れるべく一歩後ろへ下がる。短くなった黒髪を掻き上げながら、至極満足げな笑顔だ。
「文句言わないで下さい、俺が勝ったんですから」
「だーかーらー、何で負けるかなー」
 心底悔しそうな表情で、フリードリヒはハインツの隣に立つラインハルトを睨み付けた。
 怒りの矛先が自分に向いたことを感じて、ラインハルトは溜め息を落とした。

 ハインツのくせのない艶やかな黒髪を見事だとそう言ったのは、ラインハルトだった。伸ばしたところが見たいとラインハルトが提案したら、ハインツは嬉しそうに笑った。そのくせ、「剣で勝ったら」と条件を付けたので、それ以後、二月に一度、剣を合わせることになった。
 近衛隊に入隊できるハインツの腕前はそれ相当のものではあったが、ラインハルトはその上をいく腕前の持ち主である。勝敗は、5勝12敗。4連敗を喫し、肩を過ぎてしまった黒髪を面倒くさそうに後ろでまとめていたハインツが貴重な5勝目を上げたのは昨日のことである。

「ラインハルト、そろそろ行かなきゃまずいぜ?」
 窓辺に近付いたハインツが、中庭を見下ろしてそう促す。薄紫色の瞳には、集まりつつある騎士隊の姿が映っていた。騎士隊の朝の集合時間だ。
 近衛隊に入隊すると、指揮系統が騎士隊長から王族になるため、騎士隊と行動を共にすることは少ない。こうしてフリードリヒが呼び出したりしない限り、ハインツとラインハルトは勤務日に顔を合わせることは滅多になかった。
「……そうだな」
 ハインツの横に移動して、ラインハルトも窓の下を見下ろした。
 視線を巡らせると、朝陽がきらきらと降り注ぐハインツの黒髪に目を奪われた。
「……どうした?」
 ぼんやりと黒髪を見つめるラインハルトに、訝しげにハインツは問い掛けた。
「……何でもない」
 そう答えて、ラインハルトが踵を返す。
「最近、おかしいぜ?」
 心配するハインツの声に、大丈夫だとでも言うようにラインハルトは背を向けたまま片手を上げた。そのまま別れの挨拶をして、フリードリヒに向き直る。
「殿下、それでは失礼致します」
「……ラインハルト、」
 言い掛けて、フリードリヒは口を閉ざした。
「何か?」
「んー、またでいいや」
 そう言って、無邪気な笑顔を浮かべた。いつまで経っても幼く見えるその表情に、ハインツが思わず笑顔を浮かべる。

「次負けたら、クビだからね」
 退室際そう告げられて、ラインハルトは苦笑した。
「そうは言っても殿下、ハインツは強いですよ」
「それ自慢か? ラインハルト」
 朝陽を背後にハインツがくすくすと笑う。
「少しな」
 ふっと笑顔を返して、ラインハルトは退室した。

 扉が閉まると、ハインツの表情から笑みが消えた。黙ったまま、閉ざされた扉を、しばしの間じっと見つめる。
「何だか、追っ掛けて行きそうだねー」
 フリードリヒの声に現実へと引き戻され、ハインツは振り返った。大きな灰色の瞳と視線がぶつかる。
「殿下」
「何だか妬けるね」
 笑顔のまま、フリードリヒはふうっと息を落とした。
「今でもラインハルトが好き?」
 その問いには答えず、ハインツは短くなった黒髪を掻き上げながら、朝陽の方へと視線を向けた。
「……大切です。そうですね、ラインハルトのためなら、自分を殺せる程度には」
 窓辺に近付き、ハインツは窓から中庭を見下ろした。既に整列を終えた騎士隊の、号令の声が響く。
「……妬けるね、本当に」
 背後から告げられたその声に、ハインツはゆっくりと振り返った。
「でも、殿下のためにも死ねますよ?」
 笑顔を浮かべて、そう付け足す。
「簡単に言うねー、お前」
 笑顔のハインツを両腕で抱き締め、フリードリヒは溜め息を落とした。
「置いて行かれる身にもなってくれ」
「……すみません」
 素直に腕の中に収まりながら、ハインツはそう謝罪した。

 この五年間、フリードリヒの優しさに甘えていることには気が付いていた。このままではいけない、そう思いながらも、差し伸べられる手を振り解くことは出来なかった。
 ならば、いっそのこと身を委ねてしまえば、と何度もそう思った。その方が楽になれる、そう思えた。
 しかし、その度に思い止まる自分がいた。

「ハインツ……?」
 静かになったハインツを心配そうに大きな瞳が覗き込んでくる。
「殿下……」
「何? その気になってくれたとか?」
「違います」
 即答し、ハインツは自分を抱き締めるフリードリヒの腕に手を添えた。
「そろそろ離して下さい。これでは何も出来ません」
 にっこりと笑顔を浮かべて、そう告げる。

「いいよー、このままで」
「駄目です」
「ね、ラインハルト止めて、そろそろ私に乗り換えようよ」
「無理です」

 何度も繰り返されてきたいつもの問答――。

 だが、次の瞬間、告げられた言葉に、ハインツは身を硬くした。

「ね、抱かせてよ」

 笑顔が消えたその顔で、フリードリヒは率直にそう言葉にした。いつもの温かいその声に真剣さを纏う。

「ハインツ、お前が欲しい」

 ハインツの身体を抱き締めるフリードリヒの腕に力が込められる。

「……駄目です」
 俯いて一つ息を落とし、ハインツはそう言葉にした。その言葉に、抱き締めていたフリードリヒの腕が離れていく。
「どうして?」
 見上げると、泣き出しそうなフリードリヒの顔があった。
「殿下がお優しい方だからです」
 真っ直ぐにその顔を見つめたまま、ハインツはそう答えた。
「だから、駄目です」
 もう一度、今度は意志を持ってそう拒絶したハインツに、フリードリヒの声が陽気さを失う。

「私はね、ハインツ」
 そう前置きして、フリードリヒはハインツの腕を掴まえた。そのまま、奥の寝台へとハインツを引き摺っていく。
「お前に、身体を開けと命令することも出来るのだよ?」
 ハインツの身体を寝台に押し倒しながら、フリードリヒは脅すような低い声でそう告げた。組み敷いた薄紫色の瞳を真っ直ぐに見下ろし、ハインツの反応を見守る。

「……殿下が、そうご命令なさる方なら、とっくに従っています」
 予想外の返答に、フリードリヒは大きなその瞳を更に丸くした。
「一片も心を動かすことがないとそうお誓い下さるならば、この身体、いつでも差し上げますよ」
 ハインツを見下ろしたまま、フリードリヒは溜め息を零した。
「私はお前を愛しいと思っているんだよ? そのお前を抱いて心を動かすなと? そう誓うの?」
「はい」
 きっぱりとそう言い放つその声に、フリードリヒは脱力感を覚えずにはいられなかった。
「殿下はお優しい方です」
 切れ長な薄紫色の瞳で、真っ直ぐにフリードリヒを見上げながら、ハインツが続ける。
「もし一度でも抱いたら、きっと今まで以上に心を砕いてしまわれる。殿下はこの国にとって大切な方。俺如きに心を砕くこと、俺はそれを望まない」

「ホント、馬鹿だね、お前」
 もう一度溜め息を落として、フリードリヒは立ち上がった。
「私は別に、お前だけでいいんだけどね」
 ハインツに背を向けて、小さくそうぼやく。その背中を、ハインツはただ黙って見つめていた。

「でもね、ハインツ」
 しばらくして、くるりと振り返ったその顔は、いつもの陽気な笑顔を浮かべていた。
 殿下らしい、とそう思うと同時に、ハインツは改めてフリードリヒの存在を有難く思った。

「ラインハルトはいずれ結婚して、子供を作って、アウエンバッハの後を継ぐんだよ? それを黙って見守るの、つらくない?」
 そう、努めて明るい声で、フリードリヒは現実を突きつけた。

 つらくない、と言えば嘘になるだろう、でも――。

「言ったでしょう? 自分自身よりラインハルトの方が大切だって。親友として、傍であいつの役に立てればそれでいい」
 決意を言葉にして、ハインツは不思議と心が落ち着くのを感じた。

 もしかしたら、そのために殿下はつらい言葉を掛けてくれたのかも知れない……。

 ふとそんな気がして、自惚れに程があると、ハインツは慌ててその考えを否定した。

「私の方がお得だと思うけどねー」
 フリードリヒの陽気な声が届く。
「俺もそう思います」
 そう答えて、ハインツも微笑んだ。



 その日の午後のことだった。
 ラインハルトが婚約した、との噂が、ラストア城内を駆け巡った。




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