Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 声に出来なかった想い 

 第8話 


「ハインツ」
 遠くで鳥の啼く声が聞こえた。フリードリヒの声が大きなその部屋に響く。
「これは、陵辱の跡、だね?」
 静かな声が確認するように、そう問い掛けた。それは、いつもの陽気で明るい声ではなく、幾分低く抑えた声だった。
「隠し事はなしだよ?」
 静かな声がそう後押しをする。
「……はい」
 しばしの沈黙の後、ハインツはこくりと頷いた。ハインツの頭上に大きな溜め息が落とされる。
「立ちなさい」
 ハインツの手首を気遣うように、それでいて有無を言わせず、フリードリヒはハインツを立たせた。ハインツは顔を背けたままフリードリヒに従い、部屋の奥へと導かれた。
「……殿下?」
 少しだけ上げた視線に、天蓋付きの大きな寝台が映り、ハインツは動揺の声を上げた。次の瞬間、柔らかな羽布団の上に身体を投げ出される。
「殿下」
 もう一度そう声にして、ハインツはフリードリヒを見上げた。大きな灰色の瞳に、いつもの笑みはない。
「殿下」
「……私は怒っているのだよ?」
 フリードリヒのその声に、ハインツの背中をぞくりと恐怖が走る。それを打ち消すように、ハインツは口を開いた。精一杯の虚勢を張る。
「お言葉ですが、殿下」
 視線を合わせることなど出来なかった。上等な寝台の上、片腕で顔を覆い隠しながら、ハインツは言葉を繋げた。
「殿下といえど、臣下の情事まで口を挟む権利は……」
「私の目を見て、話しなさい」
 寝台の端に腰を下ろしたフリードリヒの上体が覆い被さってくる。顔を隠していた腕をやんわりと退けられると、フリードリヒの顔がすぐ間近にあった。
「……殿下」
「脱ぎなさい、ハインツ」
 拒絶を許さない声がそう告げる。
 一つ息を呑んで、ハインツは首元までしっかりと留めていた騎士隊服の上着に手を掛けた。一つ一つ、釦を外していく。
 ハインツの顔の両脇に手をつき、真っ直ぐにハインツを見下ろしたまま、フリードリヒはそのぎこちなくゆっくりとした動作を見守った。しっかりと開かれた灰色の瞳の中、騎士隊服が開かれていく。
「……続けて」
 ハインツの指の動きが止まる度に、フリードリヒの声がそう促す。何度かその遣り取りを繰り返しながら、騎士隊服の下に着ていた薄いシャツの釦さえも全て外し、ハインツは息を吐いた。
 フリードリヒの手が、シャツの前を肌蹴ていく。顔を背け、唇を噛んで、ハインツはその瞬間に耐えた。
 傷つけられたことなどない白い肌には、醜い鬱血の跡が刻まれていた。その跡の中には、噛んだ跡や乱暴に捻られて出来たと思われる跡もあった。よく見ると殴られたらしい跡も窺えた。
 それらの跡は、とても合意の上で付けられたとは思えないほど、酷いものだった。
 現実を突きつけられて、フリードリヒが大きく息を吐く。
「……一体、誰が?」
 それは、怒っているような泣いているようなそんな声だった。
(……誰が?)
 ハインツは頭の中でそう反復した。

 考えを巡らせようとしたその時だった。扉を叩く大きな音が耳に飛び込んでくる。

「失礼致します、殿下。お話したいことがございます」
 その声に、ハインツの心臓は跳ね上がった。震える指先で前を合わせ、フリードリヒの下から身を滑らせようと試みる。その動きをやんわりと制し、フリードリヒは瞳を細めた。
「まさか……?」
「違います!」
 フリードリヒの脳裏に浮かんだであろうことを推測し、ハインツは即座に否定した。
「違う!」
 もう一度きっぱりとそう言い放つ。
 初めて合わせた視線の先、溜め息を落とすフリードリヒの顔があった。
「……判ったよ」
 短くそう答え、フリードリヒは立ち上がった。片手で天蓋から落ちる薄布を下ろすと、寝台の中のハインツの姿は微かな人影になった。
 扉の向こうからはなおも声が聞こえる。
「ラインハルト、入れ」
 その声にそう答え、フリードリヒは扉の方へと足を運んだ。

 扉を開けて、ラインハルトが入ってくる気配がした。ハインツがいる場所は、彼らが話をしている広い部屋から続く奥の間で、その一番奥に設置された寝台の上である。薄布が下りた寝台の中は見えないはずであった。それでも身動ぎ一つ出来ず、ともすれば呼吸すら押し殺して、ハインツは時が過ぎるのを待っていた。

 微かな話し声が届く。

「殿下、昨日のことはティム殿にも非がございます」
 広い部屋にラインハルトの声が響く。どうやらハインツがフリードリヒに呼び出されたのは、昨日の伯爵家の跡取りを殴ったことを咎められてのことだと思っているようであった。ラインハルトの様子に、フリードリヒが笑みを零す。
「血相変えて来たから何だと思えば、そのことか」
 いつもの陽気な声がそう答える。
「そうだね。忘れていたけど、確かにティムには泣きつかれたよ。でも、そんなことでハインツを呼び出したんじゃない」
 フリードリヒの返事にラインハルトは安堵の息を落とした。

「……では、何故?」
 ふと考えを巡らせて、ラインハルトはそう問い掛けた。
「それに、ハインツは何処に……?」
 くるりと広い室内を見渡してみても、ハインツの姿はない。
「答えなきゃいけないかな?」
 フリードリヒの反応に、息を呑んでラインハルトは頭を垂れた。気さくで話しやすく、交流がある人物だといっても、相手はこの国の第二王子なのである。一介の臣下である自分が口を挟むべきではない。
「いえ、出過ぎたことを申しました」
 丁寧な口調でそう答え、もう一度礼の姿勢を取る。
「いいよ、別に」
 陽気な声でフリードリヒはそう答えた。そうして、ラインハルトの頭上から問い掛ける。
「それより、昨夜、ハインツが何処で何をしていたか、知ってるかい?」
「……え?」
 質問の意味が判らず、ラインハルトは顔を上げた。見上げた先には、フリードリヒの笑顔があった。正確にいうと、笑顔ではないのかも知れない。口元には笑みを浮かべていたものの、印象的な大きなその瞳は笑ってはいなかったのだから。
「……存じませんが」
 そう答えると、フリードリヒが溜め息を落とす。
「……だろうね。もう下がっていいよ」
 そう声にして、フリードリヒは掌を上に扉を指し、ラインハルトに退室を促した。先程の質問の意味を問いただしたいという気持ちはあったが、それを抑え込んでラインハルトは立ち上がった。
「失礼致します」
 一礼して、扉に手を掛ける。

「あ、待って、ラインハルト」
 背後からそう声を掛けられ、ラインハルトは振り返った。フリードリヒがにっこりと笑顔を浮かべている。
「ハインツなら、奥の寝台にいるから。今日は休ませると、そう伝えておいて」
 笑顔のまま寝台を指差し、フリードリヒはそう言葉にした。
 ラインハルトの表情が固まる。指差す方向に視線をやり、寝台の上に微かな気配を感じながら、ラインハルトは小さく首を振った。
「それは、どういう……?」
「想像に任せるよ、じゃあね」
 動きを止めたラインハルトの代わりに扉を開いてやり、フリードリヒはラインハルトを外へ押し出した。そうして、笑顔で手をひらひらさせて、扉を閉めた。


「さてっと」
 扉が閉まるのを見つめ、くるりと踵を返して、フリードリヒは寝台へと歩を進めた。
 辿り着く前に、薄布を捲ってハインツが姿を現す。
「どういうおつもりですか、殿下」
 薄紫色の切れ長な瞳が、真っ直ぐにフリードリヒを見つめた。
「相変わらず、綺麗な目だねー」
 そう言って、フリードリヒが嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「茶化さないで下さい」
「本当のことを言っただけだよー」
 そう答えて、フリードリヒは頬を膨らませた。ハインツが大きく溜め息を落とす。
「何度も言ってるよー、お前が好きだって」
 そう告げるフリードリヒの笑顔を、ハインツが睨み据える。
「言葉を選んで下さい。あれでは誤解して下さいと言っているようなものです」
「誤解じゃないよ」
 そう言って、フリードリヒはハインツの腕を掴んだ。そのまま、ハインツの身体を寝台へと押し戻す。
「殿下っ!」
「これから真実にするもの」
 ふふっと嬉しそうに笑みを浮かべて、フリードリヒはハインツの額にそっと口付けた。
 悪戯っ子のようなその灰色の瞳が、ふと真剣な眼差しへと変わる。

「……だから、もう傷つけちゃだめだよ」
 哀しそうな声で、フリードリヒは続けた。
「忠義心の厚いあいつはね、私のものに手を出したりは出来ない。だから、あいつから離れようと無理に傷つくことはないからね」
 その言葉を理解して、ハインツは瞳を見開いた。
「まさか、殿下、そのために……?」
 見上げるハインツに、フリードリヒが笑顔を浮かべる。
「だって、こんな絶好の機会、逃す手はないよねー」
 そう言って、くすくす笑うフリードリヒに凍てつき掛けていた胸の奥がほんの少し暖かくなるのを感じて、ハインツも笑顔を浮かべた。
「付け入るなら今、って感じかなー?」
 そう言って、フリードリヒの指がハインツの服の中へと滑り込んでくる。
「いいえ」
 きっぱりとそう声にして、ハインツはその手を掴んだ。
「今日は嫌です」
 笑みを浮かべて、そう告げる。
「えーっ」
 わざと大きくそう漏らし、フリードリヒはいつもより大きく頬を膨らませた。
「殿下はお優しい方ですから、傷だらけの私に無体な真似はなさいませんよね?」
 そう釘を刺すハインツに、膨れ面のままフリードリヒは両手を上げた。

 窓から零れ落ちる陽の光が、薄布を経てハインツの黒髪に柔らかい光を落とす。決意を秘めた薄紫色の瞳で、ハインツはその光を見つめた。




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