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「では陛下、よろしいのですね?」
巨大なラストア王城の最上階にある執務室に初老の男性の声が響いた。その言葉に、ラストア現国王ヴィルヘルム=ラス=キシュバルトは、もう何度目になるか判らない溜め息を落とした。その薄紫色の瞳は、中庭を歩く1人の青年を見つめている。
「仕方あるまい。このままではあの子自身に危害が及ぶ……。ほとぼりが冷めるまで王城から離れさせた方が良いと申すのならな」
その言葉に、初老の男は至極満足げな表情を浮かべた。
『ハインツ=フォン=リーガルモント、バルト港警備の任へ転ず』
その辞令は緘口令とともに密やかに通達された。元老院長の他数名、騎士隊長と近衛隊長、そして、ハインツ本人にだけがその事実を知ることになった。
しかも期日は明後日。ハインツ自身、何とも衝撃的なその辞令を俄かには受け入れ難かったが、拒否権などなかった。出立準備のため突然休暇が舞い込んだが、さして準備するものもなく、ハインツは部屋でぼんやりと過ごしていた。
その部屋は、王城内にある近衛隊宿舎の一角にあった。勤務時間なので当然かも知れないが、皆が出払った宿舎は不気味な静まりを感じさせた。
考えることは山ほどあった。
今回の辞令のこと、フリードリヒ殿下のこと、――ラインハルトのこと。
寝台の上に身体を投げ出し、一つ溜め息を落としたその時だった。扉が乱暴に開かれる。そうして、姿を見せた人物にハインツは息を呑んだ。
「……ラインハルト」
瞳を大きくして、ハインツは飛び跳ねるように寝台から身を起こした。一言も発さないまま、ラインハルトがずかずかと部屋に押し入ってくる。
「どうしたんだ?」
ラインハルトにそう問い掛けながら、ハインツは慌てて立ち上がり、数歩後後退った。ラインハルトが急速に距離を縮める。
だんっという音が耳に届いた時には、ハインツは壁に追い込まれていた。身体の両脇に伸ばされたラインハルトの腕が、退路を完全に塞いでいた。
「……おい」
少し目線を上げ、ハインツは非難の視線を向けた。至近距離で見るラインハルトの整った顔には、明らかな怒りが見て取れた。その唇がゆっくりと開かれる。
「訊いた」
何を、とは尋ねなくても明らかだった。
「緘口令、敷かれてたと思うけど?」
かろうじて笑顔を浮かべてみるものの、目の前にある漆黒の瞳がすうっと細められて、ハインツは冷汗を感じずにはいられなかった。
何とも言えない迫力に気圧される。
「行かせない」
「は? 何言ってんだ、あんた」
行かせないと宣言したところでそれが無理な話であることは明らかであった。そもそも今回の辞令そのものにラインハルトは無関係であるはずだ。
「俺に除隊しろとでも言いたいわけ?」
「なるほど、いい案だ」
冗談交じりに言ったその言葉をあっさりと肯定されて、ハインツは大きな溜め息を落とした。切れ長の瞳を見開いて、ラインハルトを真っ直ぐに見つめる。
「あんた、変だぜ?」
「変でも構わない。絶対に行かせない」
有無を言わせないその低い声には、何か得体の知れないものを感じた。大袈裟かも知れないが、このまま軟禁されてしまう、そう錯覚できるほどだった。
「冗談じゃねぇ、縛り付けられてでも俺は行くからな」
そう宣言しながら、ハインツは一つしかない窓の方へ視線を巡らせた。ラインハルトの腕から逃れる機会を伺う。
「行かせない」
「行く」
何故だろう、逃げ出さなくてはならない、ハインツはそう直感していた。幸いハインツの部屋は2階で、飛び降りられないこともない。
一瞬扉へ向かう振りをして、ラインハルトの腕から擦り抜け、ハインツは窓枠に手を掛けた。しかし、飛び上がろうとした身体をラインハルトに乱暴に引き寄せられる。そのまま押し倒されるように寝台に縫い付けられ、ハインツはぞくりとした恐怖を感じた。
「たったの1年だぜ?」
恐怖を打ち消すように、ハインツはラインハルトを見上げた。顔の両脇に両手首を抑え付けられ、引き締まった腹部の上にはラインハルトが馬乗りになっている。
「死地に赴くわけじゃないし……」
1年の出向だとそう聞いていた。隣国であるカルハドール王国の情勢が不安定な現状では安全とも言い難いが、命に関わるようなことはまずない、そうハインツは考えていた。
ラインハルトがぎりりっと唇を噛み締めるのを見つめ、その考えが間違いなのかも知れないという考えがハインツの脳裏に過る。
それでも、
「例え死地に向かうんだとしても、俺は行くけどな」
ラインハルトに阻止される謂れはなかった。
「お前を引き留めるためなら、何でもする」
ラインハルトの声が届いた時には、唇を塞がれていた。ハインツは薄紫色の瞳を大きく見開いて、動きを止めた。尤も動こうとしても抑え付けられた腕も身体も捩ることすら出来なかったのだけれども。
「……んんっ、……ん」
喉の奥で抗議の声を上げるハインツに構わず、歯列を割り、舌を滑らせて、ラインハルトはハインツの口腔内を貪った。逃げていく舌を捉えてきつく吸い上げると、ハインツの身体がびくんと跳ねる。
「はぁ……っ、あ」
やっとのことで唇を開放され、ハインツの唇から吐息が零れた。口端からどちらのものとも判らない唾液が流れ落ちる。
「……あんた、何を考えてる?」
上がる呼吸を整え、ハインツはラインハルトを見上げた。見下ろすラインハルトの視線とぶつかる。
「これから、お前を抱く」
ハインツが大好きな低く良く響く声が、そう告げた。
一瞬、ハインツの頭が真っ白になる。
「いいな?」
何が起こっているのか、ハインツには理解出来なかった。全身から力という力が抜け落ちていく。
何故……?
何故……?
ハインツの頭の中で、その2文字だけがぐるぐると回っていた。
ラインハルトの手は既にハインツの手首から離れ、上着の釦を外しに掛かっていた。手首を抑えるものは何もないはずなのに、ハインツは指一本動かせずにいた。