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自分のものでない指が、肌の上を滑り落ちていく。
それは、初めての感覚ではなかった。
それなのに――。
1度目は、ほとんど口を訊いたこともない義兄の指だった。長くしなやかなその指は、ぎこちなくハインツの身体中を撫で回した。義母への復讐だけを考えながら耐えたその行為は、ハインツに快楽をもたらすことはなかった。
2度目は、出会ったばかりの名前も知らない男の指。ごつごつとしたその指は、乱暴でそれでいて巧みに快楽を導いていった。無理矢理引き出されたその感覚は、ハインツに恐怖と嘔気をもたらした。その夜のことは、今でも忘れることは出来ない。
あれから5年。
ハインツは誰とも肌を合わせたことはなかった。未だに性行為そのものに恐怖を感じるということもあったが、それより何より誰とも肌を合わせたいとは思えなかった。
だた1人を除いて――。
「はぁ……っ、あ、あ、……っ、……あ、」
ラインハルトに触れられた全ての場所が、研ぎ澄まされた性感帯に変わってしまったかのようだった。自分でも信じられないほどの甘ったるい吐息と掠れた声が上がっていく。それでいて、抑えようとすればするほど、耐え難い快楽の波が微かに残るハインツの意識を奪い去ろうとしていた。
「あ、……あ、……っ、」
何故、こんなにも身体が歓喜するのか、答えは考えなくても判っていた。
肌を滑り落ちていく指先も、耳元に掛かる吐息も、その全てがラインハルトのものだと、そう自覚するだけで身体がおかしくなりそうだった。
「……ライン、ハルト」
うっすらと瞳を開き、ハインツは胸元を滑り落ちていくラインハルトへと視線を送った。熱を帯びた薄紫色の瞳に、褐色の短髪が揺れるのが映る。
「あぅ……っ」
胸の突起に歯を立てられ、ハインツの身体はびくんと跳ね上がった。と同時に視線を上げたラインハルトの漆黒の瞳に見つめられ、ハインツはぞくりと全身が粟立つのを感じた。
「……ハインツ」
低音の美声が、尚もハインツを煽る。
このまま快楽に攫われてしまえばいい、ハインツの頭の中で誰かがそう囁いていた。
耐え難い誘惑に、心がぐらりと揺らぐのをハインツは感じていた。寝布を固く握り締めたままの両手が、ラインハルトを求める。
それでも、
「駄目だ、……ラインハルト」
自分に言い聞かせるように、ハインツはかろうじてそう言葉にした。そうして、両腕を伸ばして、精一杯の力でラインハルトの胸板を押し退けた。
ラインハルトの動きが止まる。
ラインハルトの性格からして、拒む者に無理強いするなど出来はしないはずであった。
拒絶の言葉は、ラインハルトに冷静さと思慮深さを取り戻させてくれる、ハインツはそう思った。そして、それは同時に、この愚かで甘いまやかしの時間の終息を意味するはずだった。
「……嫌だ」
もう一度そう声にして、ハインツは顔を背けた。
今度こそ終わらせる、そう願う一方で、身体と心がラインハルトを求めそうになる。顔を背けたまま、ハインツは沸き上がる何かを、懸命に抑え込もうとしていた。
だが、
「許せ、ハインツ」
よく響く低音の声が、ハインツの耳に届く。その言葉に目を見開いてハインツは声の主を振り返った。
すぐ其処に、ラインハルトの顔があった。
ハインツの鼓動がどくんと跳ね上がる。
ラインハルトの澄んだ瞳は、いつもの落ち着いた優しさを湛えていた。それはまさしく、ハインツが愛して止まないラインハルトの姿そのものだった。決して一時の感情に浮かされた男の姿ではなかった。
全てを承知している、そのことが窺えた。
ラインハルトの眼差しに胸が締め付けられる。
どうすればその決意を翻させることが出来るのだろう――。
「ラインハルト、元老院の命令なんだ」
声の震えを抑えながら、ハインツはそう言葉にした。
「知っている」
その間も、ラインハルトの指は、ハインツの肌の上を滑り落ちていく。
「……逆らえない」
「判っている」
「判っているものかっ!!」
ラインハルトの静かなその声に、ハインツは声を荒げた。一つ息を吸い込んで、一気に捲し立てる。
「あんたはまるで判ってないっ! 俺が除隊すれば済むってもんじゃないんだ! 元老院の命令を無視したら、家族だって裁かれるかも知れない。庇い立てしたことがばれたら、あんただってタダじゃ済まない! もしかするとあんたの家族だって……っ! 俺は……っ!!」
「判っている。それでもお前を失うよりはずっといい……」
肩で息をするハインツを、ラインハルトは両腕で抱き締めた。初めはふわりと、そして微かな震えとともにきつく抱き締められ、ハインツは息を詰めた。
「……この命令、受けるとお前は殺される」
低く唸るような声で、ラインハルトはそう告げた。
ハインツの背中をぞくりと恐怖が走る。
殺される……?
何故……?
元老院に恨まれる覚えはない。
だがそれが本当なら――、
「……なら尚更だ。理由は判らないが、俺を殺したくて元老院が画策したってんのなら、それを邪魔することが何を意味するか、判らないあんたじゃないだろう?」
そう告げて、ハインツは大きく一つ深呼吸した。
「俺は行く」
改めて決意を口にすると、きつく抱き締めていたラインハルトの腕が解かれた。次の瞬間、上から両肩を抑え付けられ、ハインツは息を呑んだ。
「自分勝手なのは、承知している」
よく響くその声が、言葉を紡いでいく。
「お前を苦しめることも、判っている」
何を言おうとしているのか、何となく判っていた。
「それでも、」
間近で告げられる言葉は、訊きたかった、そして同時に、もっとも訊きたくなかった言葉――。
「お前を、愛している」
真っ直ぐな漆黒の瞳で、ラインハルトははっきりとそう言葉にした。その言葉には一片の曇りも感じられなかった。
「すまない、泣かせるつもりはなかった」
そっと目尻を拭われ、ハインツは自分が泣いていることを悟った。次々と涙が溢れ落ちていく。
もう、抑えることなど出来はしなかった。
「お前が欲しい」
ラインハルトの声が届くと同時に、優しい口付けが落とされる。
もう終わりだ……。
涙腺が壊れてしまったのだろうか、涙が止め処もなく零れ落ちていった。哀しいのか、嬉しいのか、それはハインツにも最早理解出来なかった。
ただ、確かなことがあった。
ラインハルトの眼差しは、固い決意を物語っていた。全てを犠牲にしても、自分という存在を守ってくれようとしている、その想いがハインツにも痛いほど伝わってきた。
もう止められない……。
恐る恐る、ハインツはラインハルトの背に手を回した。
覚悟を決めなくてはならない……。
視線を巡らせると、いつの間に降り出したのだろうか、雨が窓を叩いているのが見えた。
その視界が涙で滲んでいく。
ラインハルトに、犠牲を払わせることは出来ない……。
ゆっくりと両脚を開いて、ラインハルトの愛撫を受け入れながら、ハインツは密かな決意を固めた。
「……はぁ、……あ、あ、ああっ!」
ぞくぞくと背中を何かが駆け上がる。自分の中にラインハルトの存在を感じ、ハインツはその身を震わせた。
「あっ、……あ、あ、……ん、……ッ、あ……ッ」
ほんの微かな動きすら、ハインツに耐え難い快感を与えた。縋り付くようにラインハルトの背にしがみ付きながら、その渦に呑まれていく。
「ハインツ……」
ハインツの最奥までぐぐっと侵入して、ラインハルトはその名を呼んだ。
「ああ、あ……っ、ライン、ハルト……っ、あ、あ、あ、」
その度に、喘ぐ呼吸の中、ハインツは必死にラインハルトの名を呼び返した。
「んんッ、……ライン、ハルトっ、……あ、も、もう……、ラインハルト……ッ、」
追い立てられるように互いの名前を呼びながら、上り詰めていく。
「ああっ!」
一際高く声を上げ、抱き締める腕に力を込めて、ハインツは自分自身を解放した。同時に体内にラインハルトが精を放つのを感じ、身体が震えた。
「ハインツ、行かないでくれ」
荒い息を吐くハインツの身体を抱き締めながら、ラインハルトはそう願った。
大きく一つ深呼吸して、ハインツはラインハルトを真っ直ぐに見つめ返した。
「判った」
視線を外さず、真っ直ぐにラインハルトを見つめたまま、
「バルト港には、行かない」
何かを決意した薄紫色の瞳で、ハインツはそう告げた。
激しくなった雨が窓を叩いていた。
雨音に耳を傾けながら、ハインツはゆっくりと瞳を開いた。自分を抱き締めるようにして寝息を立てているラインハルトを瞳に映す。そして、起こさないように細心の注意を払い、ハインツは寝台から滑り降りた。
脱ぎ散らかした隊服の埃を払い、綺麗に畳んで机の上に置く。ラストア王国の紋章を刻んだエストック(細身の剣)をその上に置き、ハインツは一つ息を吐いた。そのまま動きを止める。
……ごめん、ラインハルト。
心の中でだけそう謝罪する。振り返りたい衝動に駆られたが、それを無理矢理押し込んで、ハインツは扉に向かった。そっと扉を開いて、意を決したように走り出す。
「……ハインツ?」
階下へ向かうべく階段に差し掛かったところで、ハインツは上がってきた人物にそう声を掛けられた。
「……殿下」
ハインツの様子に驚いたように灰色の大きな瞳が見開かれている。
「……失礼します」
慌てて視線を外し、ハインツは俯いたまま、急いでその横を擦り抜けた。
「ハインツ?」
フリードリヒが追い掛けようとしたその時、ハインツの部屋の扉が荒々しく開かれた。
「ハインツ!!」
狭い廊下にラインハルトの声が響く。その声を振り切るように、ハインツは全速力で駆けた。
「ハインツ!!」
駆け出すラインハルトをフリードリヒの手が制する。
「……何があった?」
笑みを失くした灰色の瞳が、ラインハルトを見つめた。