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ラインハルトらしからぬ着崩れた姿と、その肩越しに見える乱れた寝台が、フリードリヒの瞳に映る。
何があったかなんて、訊くまでもなかった。
ハインツの気配が遠ざかっていく。
ただ激しくなった雨が窓を叩きつける音だけが、狭い廊下に響いていた。
「ラインハルト、何があったと、そう訊いている」
いつもより若干低い声で、フリードリヒはそう問い掛けた。
細められた灰色の瞳に、膝を折り礼の姿勢を取ったラインハルトの姿が映る。
「……ハインツを抱いた?」
「はい」
頭上から投げられるその言葉に、俯いたままそれでいてきっぱりとラインハルトはそう答えた。
フリードリヒが大きく息を吐く。
「……合意の上で?」
「いえ、無理矢理抱きました」
「……だろうね」
フリードリヒの表情が曇る。そうして、片手で指示を出してラインハルトに立たせると、フリードリヒはほぼ同じ目線になったラインハルトを真っ直ぐに見つめた。
「一発殴るよ」
そう言葉にしてから、フリードリヒはラインハルトの左頬を殴った。フリードリヒの瞳に、揺れる褐色の髪が映る。一瞬だけぐらりとしたものの何とか踏み堪え、ラインハルトは一片の曇りもない漆黒の瞳で、フリードリヒを見つめ返した。
「お前は嘘を吐けない人間だものね……」
しばしの沈黙の後、フリードリヒは重い口を開いた。
「お前のそういう処、好きでもあり、嫌いでもある」
雨は一段と激しさを増していた。
ラインハルトから視線を外して、フリードリヒは窓の外を見つめた。
「あの子のことは良く知っているつもりだからね。お前に抱かれただけで、取り乱すとは思えないんだけど……」
真っ暗な空と叩きつけるような雨が、フリードリヒの瞳に映っていた。
「愛していると、そう言葉にしました」
激しい雨音の中でも、ラインハルトの低音の声は、はっきりとフリードリヒの耳に届いた。
「……勝手だね、お前」
大きな灰色の瞳に、窓を叩きつける雨粒の姿を映したまま、フリードリヒはそう答えた。
「あの子はもう帰って来ないかも知れない……。お前に愛されることを、あんなに怖がっていたのだから」
「……知っています」
短くそう答え、ラインハルトは一礼して部屋の中に戻った。手早く身支度を整え、エストックを腰に提げて再び廊下に姿を現す。
「追い掛けます。ハインツの不安ごと、あいつの全てを受け止める覚悟は出来ています」
「で? お前は何もかも失うつもりなのかい?」
フリードリヒが振り返る。
いつもの笑顔ではない、初めて見るフリードリヒの表情がそこにあった。
「自分のためにお前が何かを失うこと、そのことでお前を愛する家族が悲しむこと、そしていつかお前がそのことを後悔すること。ハインツにとってこれ以上の恐怖はないだろうね、ラインハルト」
それはハインツを傷つけることを許さない、冷ややかな声だった。
「……そうさせたのは、どなたですか?」
ラインハルトが口を開く。その台詞に、フリードリヒは瞳を大きく見開いた。
「ラインハルト……」
「あんなに愛情に飢えさせて、憎まれることを怯えさせたのは……、あいつに愛情を与えなかったあなた方肉親のせいではありませんか……」
「お前、まさか」
「それでいて、邪魔になるから処分する? あいつを何だと思ってらっしゃる……」
そう吐き捨て、ラインハルトは荒い息を落とした。
フリードリヒの灰色の瞳が、そのラインハルトを射抜く。
「……お前、何処まで知っている?」
「全て」
フリードリヒの視線を真っ直ぐに受け止めて、ラインハルトは短くそう答えた。
「最初から全て知っています。父から全てを聞かされ、ずっとあいつを見てきました。あいつは陛下のご落胤、つまりあなたの異母弟君。若かりし陛下が、あろうことか親友の婚約者を奪って生ませた子。ずっと伏せられていたそのスキャンダルを、王位継承権を狙い続けている王弟殿下が嗅ぎ付けた。今回の決断、陛下はきっと王城から離れさせることであいつを守るおつもりなのでしょう。だが違う。現王政を望む元老院の狸たちがあいつをどうするつもりか、そんなこと容易に想像がつきます」
唇をぎりっと噛み締め、ラインハルトはエストックの柄を握る手に力を込めた。
「あいつは必死に生きてきた。自分の居場所を守ろうと一生懸命に……。だから私が守ってみせる。たとえ何者であってもこれ以上あいつから何1つ奪わせはしない」
「……いい覚悟だね、ラインハルト」
頭を垂れたラインハルトの頭上から、フリードリヒが静かにそう告げた。ふうっと長い吐息を落とす。
そして、
「相手は手強いよ? でも、一番手強いのはハインツだと思うけどね」
溜め息混じりの笑顔で、フリードリヒはそう付け足した。
「さあ、探しに行こうか。私も行こう」
手を広げて促すフリードリヒに、ラインハルトはこくりと頷いた。
「早まった真似してなきゃいいけどね……」
二手に分かれる前、フリードリヒは小さくそうぼやいた。
その言葉の重みを意味して、ラインハルトは一つ息を吐いた。
きちんと畳まれたハインツの近衛隊服と、その上に置かれたエストックが、ラインハルトの脳裏に浮かぶ。形に出来ない不安だけが胸に込み上げていた。
自分が仕出かした行動には、何一つ後悔していない。
騎士隊長である父から密命を受け、ずっとハインツを見てきた。人に隠れるように剣の修行を積み、目立つことを嫌い、疎まれることを怖がる、必死で自分の居場所を守ろうとするその姿に、心が痛んだ。それでいて、一途なその生き方に、いつのまにか心を奪われていた。
自分の想いに向き合ってみると、痛いほどのハインツの想いが伝わってきた。同時に、ハインツの恐怖も理解出来た。
何が正解なのか、どうすることがハインツにとっていいのか、考えれば考えるほど答えは出なかった。
ただ、どうしてもハインツを失いたくない自分がいた。
自分勝手だとそう思う。ハインツを傷つけることも判っていた。
でも、この生き方しか、選べなかった――。
「ハインツっ!!」
土砂降りの街を、ラインハルトは駆け抜けていった。
何処をどう走ったのか、気がつけばハインツは、大きなアルウェス河を見つめていた。
雨で増水した大河が、ハインツの薄紫色の瞳に映る。
いっそのこと、このまま何もかも流れて消えてしまえればいいのに――。
ふとそう考えて、誘惑に負けそうになる。
自嘲気味に笑みを浮かべ、ハインツは自分の膝に顔を埋めた。
ラインハルトの腕の中、とてつもない幸せを感じた。
それはたぶん、ラインハルトが全身全霊を賭けて、伝えようとしてくれたからだと、そう思う。
その想いに答えることが出来たら――。
でもそれは同時に、ラインハルトに全てを失わせることになる。
激しい雨が、ハインツの身体を容赦なく叩き付けていた。
もう一歩もその場所から動けなかった。
「よう」
降り続ける雨の中、人の気配を感じて、ハインツは顔を上げた。雨で霞む視界に人影が見える。
「やっぱお前か」
雨音に、耳障りな声が混じった。
忘れることが出来ないその声に、ハインツの背中をぞくりと恐怖が駆け上がる。
「相変わらず別嬪さんで嬉しいぜ」
ハインツの下顎に手を添え、男は顔を近付けてきた。
ふっとハインツの意識が遠ざかっていく。
「何だ、ぼろぼろじゃねぇか……。また抱いてやろうか?」
にやにやと笑みを浮かべて、男はそう問い掛けてきた。
ハインツの薄紫色の瞳に、5年前の光景が浮かんだ。
5年前、ラインハルトへの想いを断ち切るため、街に出た。『抱いて欲しい』とこの男に手を伸ばした。馬鹿な行為だったと後悔している。忘れることは出来ない、あの夜の出来事。
そして再び、自分は逃げ出そうとしている。
また後悔するのだろうか――。
ぼんやりとした意識の中、にやにや笑みを浮かべるその男に向かって、ハインツはゆっくりと手を差し出した。
そして、
「殺して欲しい」
ほとんど無意識にそう口にしていた。
「いいぜ」
5年前と同じ台詞で、男はハインツの手を取った。
そのまま男の腕の中に引き寄せられ、ハインツは瞳を伏せた。
不思議な安堵感とともに、胸がぎしぎしと軋むのを感じた。