Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 声に出来なかった想い 

 第16話 


 潮の香りを伴ったやわらかい風が、少し長くなったハインツの黒髪を靡かせていた。

 バルト港――。
 そこは、南の海に面した、ラストア王国最大の港であった。
 その港は、南方諸国や西方諸国からの商船が頻繁に出入りする賑やかさと同時に、軍港として活躍してきた重々しさを同時に持っていた。街全体が港ごと高い城壁に囲まれ、出入り可能な場所は南の海に面した一つしかない水門と、ラストア王都へ続く北の街道のみである。出入りする商船全ては水門の脇にある検問所で検閲を受け、許可を得た船のみが入港できる仕組みになっている。
 今やリルベ地方の覇者となった大国ラストア王国に面と向かって戦争を仕掛けてくる国もなく、近年では海賊たちとの小競り合いがある程度で、バルト港は穏やかなときを刻んでいた。城壁に残る傷跡のみが、かつての軍港を偲ばせる。

 その分厚い城壁の上、壁に身体を預けながら、ハインツは手紙を読んでいた。
 几帳面なその字を追い掛けながら、ハインツの顔に知らず笑みが浮かぶ。

 そこには、まるで報告書か何かのような文章で、ラインハルトの日常が綴られていた。ラインハルトなりの気遣いなのか、毎回フリードリヒ殿下の変わらない様子も事細かに書かれている。
 そして必ず、ハインツの無事を願う言葉で手紙は締め括られていた。


 ハインツが発って程なく、ラインハルトは近衛隊に入隊した。
 ラストア王国の巨大な騎士隊の一部でありながら、選ばれし者で構成される近衛隊は、指揮系統が異なることも相まって、他の騎士隊との間に少なからずの確執がある。将来騎士隊長を継ぐであろうラインハルトは、『近衛隊上がり』という経歴を避けるために、実力は十分であるにも関わらず、近衛隊入隊試験を受けないのだと、ハインツもそう聞いたことがあった。
 そのラインハルトが近衛隊に入隊した。そのことを聞いたときには、ハインツも少なからず驚いた。

 ラインハルトのその選択――。
 『俺とともに生きることを選んだせいで、騎士隊長への道を捨てたのだ』と、以前の自分なら、そう考えたかも知れない。
 だが、今ならよく判る。
 『俺の大切なものを守るために、ラインハルトに出来る最善のことをしてくれている』のだと。

 ラインハルトという人間が、何もかもを切って捨てていける人間でないことも十分承知していた。

 だから、ラインハルトの大切なものを捨てさせるのではなくて、ともに守っていけるよう自分に出来る精一杯のことをしたいと、今はそう思えるようになった。

「それにしても、あの真面目人間がどんな顔して殿下のお茶目に付き合ってるんだろうか……」
 そう独り呟いて、ハインツはくすりと笑みを零した。

 澄んだ空を流れていく雲を見上げて、ラインハルトの姿を思い出す。

 バルト港に来てからもうすぐ1年が経とうとしていた。
 ラインハルトに宛てて書いた手紙は、既に両手で足りない数になっていた。そのいずれも、まだ出せずにいる。


 悩んで悩んで、着任1ヶ月の出来事を何とか綴ってみた1通目。
 刺客を返り討ちしたことを書いてみた5通目。
 フリードリヒ殿下への伝言を作ってみた7通目。

 星を見ながら、少しだけ寂しくなって、再会を願った9通目。
 そして、自分の気持ちに向き合えた、10通目。


 胸に手を当てると、がさりと紙の音がして、ハインツは昨夜書いた11通目の手紙の存在を思い出した。
 そっと取り出して、読み直してみる。

「恥ずかしくて、出せるかよ……」
 ほんの少し頬を紅潮させ、ハインツは頭を抱えた。


 ラインハルトを愛しい、と心からそう思った。

 ラインハルトがくれる幸せの何倍もの幸せを感じてほしい、とそう願った。

 そして、ラインハルトが大切にしている全てを精一杯守ろう、とそう決めた。

 それでも失くしてしまうものがあるなら、失ったその隙間を全部埋めてやる、とそう誓った。


 再会の日まで、後20日余り。

「会いたい……」
 そう声にして、ハインツは、太陽の光を反射してきらきらと輝く水面を見つめた。



 その日の夕刻のことだった。
 霞んでいく視界に、何かが見えたような気がした。
 ハインツの胸が悪い予感にざわめく。何故だか耐え難い不安が身体中を駆け巡った。
「ちっ」
 小さく舌打ちして、ハインツは見張り台の方へと足を向けた。
 ハインツがその場所に辿り着いたのと時を同じくして、台の上から警鐘が鳴り響く。

 3度鳴らして一呼吸置く、繰り返される警鐘の音――。
 それは、敵の来襲を意味する音であった。

「どういうことだ!?」
 素早い動作で、ハインツは見張り台の梯子を駆け上がった。上に着くと、先輩の騎士が青褪めた表情で警鐘を叩いていた。
 見張り台に備え付けられた望遠鏡を覗く。

「……何だ、あれは……っ」
 飛び込んで来た光景に、ハインツは息を呑んだ。

 おびただしい数の船の姿が見えた。船型と旗の色から、それらはカルハドール王国のものと思われた。オドレス砂漠を挟んで西に位置する大国である。現国王は野心家であり、残忍な性質を持つことは聞いたことがあったが、だからと言ってラストア王国とまともにやり合って勝てる国力とは思えなかった。そしてその国王は勝算もなくラストア王国に攻め込むような愚者とは思えなかった。
 勝算――。
 それは、飛び込んで来た信じがたい光景が物語っていた。
 帆もないその船は、有り得ない速度でこちらに近付いていた。そして、空を覆う無数の黒い影――。
 見たこともない、翼を持つ異形の者たちの姿がそこにあった。

 よろめいて数歩後退り、ハインツは先輩騎士と目を見合わせた。お互いが言葉を失う。

「報告しろっ!!」
 下からそう声を掛けられ、ハインツは我に返った。未だ言葉を失くしたままの先輩騎士に代わり、見張り台から身を乗り出して、下方に視線をやる。
「ハインツか!?」
 視線の先には、初老の騎士の姿があった。ハインツとほぼ時を同じくしてバルト港警備に着任した騎士であり、何かにつけてハインツを可愛がってくれる存在である。
「ウォルフ!! 敵だ! カルハドールの艦隊!! それから、黒い翼を持った何かが飛んで来る!! 海面と空を覆い尽くして……っ!!」
 叫び声でそう報告して、ハインツは隣に座る先輩騎士の身体を揺さぶった。小さく頭を振って、その騎士が任務に戻る。同時にウォルフと呼ばれた初老の騎士が見張り台に姿を現した。

 最早肉眼でも黒い影を捉えることが出来るほどになっていた。

「ハインツ、隊長に報告を。狼煙を上げて王都に知らせろ。そしてお前は王都に戻れ」
 望遠鏡を覗きながら、ウォルフは冷静にそう命令した。
「王都に……?」
「そうだ」
 望遠鏡から視線を戻し、ウォルフがハインツの頭をくしゃっと撫でる。
「お前のことは殿下から頼まれていた。この1年、楽しかったぜ」
「……何だ、別れの言葉みたいじゃねぇか……」
 ウォルフがフリードリヒによって密かに付けられた護衛であることはハインツも薄々気が付いていた。いつもふざけた様子だが、ウォルフは優秀で尊敬できる存在であった。
 そのウォルフのいつにない真剣な表情が、ハインツの不安を掻き立てる。
「ああ、お別れだ」
 きっぱりと、ウォルフがそう告げる。
「この港は持たねぇ」
 その表情が嘘ではないことを物語っていた。

「……では俺も残ります」
 真っ直ぐにウォルフを見上げて、ハインツはそう決意した。

「馬鹿言え。役に立たねぇよ」
 大きな手でハインツの黒髪をくしゃくしゃと撫でながら、ウォルフは豪快に笑った。
「てめぇが守りたい人のところへとっとと行きやがれ。でもって余裕があれば兵を回しな。それまで何とか持ちこたえてやるから」
 その言葉にはいくらか矛盾もあったが、真実もあった。

「どちみち誰かが王都に報告に行かなきゃならねぇ。なら一番若いてめぇだ。無茶して走れよ。時間はねぇ」
 どんっと背中を押され、ハインツは心を決めた。瞳に焼き付けるかのように、ウォルフの姿をしっかりと見据える。そうして、視線を逸らさないまま、ハインツはこくりと頷いた。
「……死ぬなよ」
 最後にそう言い残して踵を返し、ハインツはその場を後にした。



 バルト港からラストア王都まではそう遠い距離ではない。馬を駆れば1日半の行程である。
 その行程をハインツは不眠不休で駆け抜けた。
 王都に近付くにつれ、胸の奥の不安が次第に大きくなっていく。

「……ラインハルト!」
 不安を打ち消すように何度もその名を呼びながら、ハインツはその街道を北へと進んだ。



 前方に茶色く霞む城壁が見える。ラストア王都を囲む最外壁である。

 やっと辿り着いたその光景と同時に、その城壁の向こうから上がる幾つもの黒煙が、ハインツの薄紫色の瞳に飛び込んで来た。




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