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親友だった、恋人になったかも知れない男、ラインハルト。
初めて、ラインハルトと口を訊いたのは、もう10年以上前の話になる――。
それは、ハインツが騎士隊に入隊してから半年が経とうとした日のことだった。
しまった、とそう思ったときには、既に手が出ていた。殴られたその相手が地面に倒れていくのを薄紫色の瞳の瞳に映しながら、ハインツは溜め息を吐いた。
我ながら気が短い、と呆れてしまう。
騎士隊に入隊してから半年、出来るだけ目立つ行動は避けてきた。それなのに――。
ざわざわと人が集まってくる気配を感じ取りながら、ハインツの中に再びじわりと怒りが込み上げる。足元に倒れ伏したその男を心底恨み、蹴りを入れてやりたくなるその衝動を何とか堪えて、ハインツはもう一度溜め息を落とした。
「何があった!?」
人だかりの中、良く通る声が割って入ってくる。その男の顔には見覚えがあった。
名前は確か、ラインハルト=フォン=アウエンバッハ。
『アウエンバッハ』といえば、騎士の国ラストアにおいて騎士隊長を輩出してきた名門である。例に漏れず現在の当主は現騎士隊長を務め、その長男がラインハルトであった。ラインハルト自身、家柄に恥じない剣の腕前の持ち主で、その人格も相まって莫大な数を誇るラストア王国騎士隊において、若手のまとめ役のような存在であった。
「ハインツ=フォン=リーガルモント!」
名を呼ばれ、意志の強そうな漆黒の瞳で見据えられる。
何故自分の名前を知っているのか――、ハインツの脳裏に一瞬だけ疑問が過ったが、それよりも初めて身近で見るラインハルトの顔の方に興味があった。
意志の強そうな瞳の上に良く似合う男らしい眉、整った鼻梁、引き締められた唇、城内の女性たちが騒ぐのも無理はないのかも知れない、ふとそう思う。年齢は確か自分より3歳上だから20歳になる筈だが、落ち着き払ったその様子からはもう少し年上の印象を受ける。いずれにせよ、将来有望な若者というわけだ。
「何があった、と訊いている」
見惚れていると、低音の良く響くその声でもう一度尋ねられた。
どんな理由を述べたところで、運が悪いことに殴り倒した相手は伯爵家の跡取りだ。どう考えても分が悪い。
「申し訳ございませんでした」
素直に頭を垂れて引き下がることにする。
いずれにせよ、これ以上注目を浴びるわけにはいかなかった。
貴族称号を名乗ってはいるものの、自分自身はリーガルモント子爵家の養子であり、問題を起こせばあの優しい義父に迷惑を掛けることになる。何より義母や義兄に付け入る隙を与えるわけにはいかなかった。
病で臥せっている母のためにも――。
もう遅いかも知れないが……。
そう思いながらも出来るだけ丁寧に頭を下げ、伯爵家にも謝罪に行く旨を了承し、ハインツはその場を後にした。
「――何を言われたんだ?」
暮れ行く夕陽を見つめていたら、背後からそう声を掛けられた。
その声の主が誰であるかは振り返らなくても判った。
「別に」
短くそう答える。
王城が見える小高い丘、ハインツが好きな場所であった。何かあると慰めてもらうかのようにこの場所に腰を下ろす。いつからかそれが習慣になっていた。今日も夕陽がとても綺麗に見える。
「いい場所だな」
そう呟いて、ラインハルトが隣に腰を下ろす。
互いに沈黙のまま、夕陽を瞳に映す。少しだけ冷たくなった風が時折ハインツの黒髪を揺らしていた。
「……口添えをして下さったそうで」
最初に沈黙を破ったのは、ハインツの声だった。
伯爵家に謝罪に行った際、既にラインハルトが取り成しをしてくれていたことを知った。そのお陰もあって、幸い大したお咎めもなかった。
「……何故?」
何があったか、自分は口にしなかった。おそらく相手も口を割らなかっただろう。
それなのに何故自分を庇うのか、ハインツにはそれが判らなかった。
「お前が殴るだけのことをしたんだろ? あいつも悪いはずだ」
にこりと笑顔を浮かべて、ラインハルトがそう正論を告げる。
その笑顔と言葉に、いつも固く閉ざしている心の扉をぐっと開かれそうになって、ハインツは少し慌てた。動揺を押し隠すようにぎこちない笑みを返す。
「で、何を言われたんだ?」
もう一度、響きの良いその声が尋ねてくる。
決して興味本位ではない、本当に心配している様子が伝わって来るその声に、ハインツは一つ息を吐いた。
「『もう子爵様には抱かれたのかよ?』」
言われた言葉を、淡々と口にする。誠実そうなこの男の表情がどう変わるのか見てみたい気もあった。
「『その顔と身体で養子にしてもらったんだろ?』」
世の中、言っていいことと悪いことがある。
よりによって――、
「そうか、義父上殿を悪く言われたのなら、仕方がないな」
神妙な顔でラインハルトがそう答える。
男である自分を抱くとか何とか、そこを突っ込むわけでもなく、自分が怒りを抑え切れなかった理由を的確に捉えて頷く、ラインハルトのその横顔に、ハインツは視線が釘付けになるのを抑えられなかった。
判ってくれる――。
たったそれだけのことがこんなにも嬉しく思えるなんて、やはり自分は愛情に貪欲なのかも知れない。
強烈に惹かれていくのを感じる。だが、それは認めていい感情ではなかった。
貪欲な自分は愛情を返して貰いたくなるに決まっている。そうして、相手は愛情を返してもらうわけにはいかない人物だった。
何かを否定するように視線を外す。
「『抱かせろよ』とだけ言えば、抱かせてやっても良かったのに……」
そう悪態を吐く。
「あんたも興味があるのなら、抱かせてやってもいいぜ?」
それが、誠実そうなその男ラインハルトを踏み込ませないためにハインツが引いた、精一杯の境界線だった。