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大きく1つ息を吐いて、キースは目の前の扉に手を掛けた。
この扉を開いて、この部屋を後にする。
それで終わりだ。簡単なことだ。
そう判っているのに、キースはまだその場から動けずにいた。
振り返りたい。レイチェルの姿を見たい。
もう一度だけ、声が聞きたい。
そんな衝動が沸き起こってくる。だが同時に、1度振り返ってしまえば、もう2度と手放せなくなることも、キースにはよく判っていた。
『キース、お前を、愛してるんだ……』
あの時、キースの耳にも、確かにそう聞こえた。
顔を上げると、レイチェルの真剣な表情があった。
少なくとも、あの一瞬だけは、レイチェルは本気でそう言ったのだ。
いや……、
「お前は、いつだって真剣だった……」
そんなレイチェルだからこそ、心を惹かれたのだ。全てを引き換えにしてもいいほどに――。
『お前を愛してる……』
レイチェルの声が頭に響く。
驚いた。そして、嬉しかった。
散々ひどいことをした自分を、レイチェルは『愛してる』と、そう言ってくれたのだ。
初めてレイチェルを見たあの幼い日から、ずっとレイチェルに心を奪われ続けてきた。
実家から勘当され、全てを失っても、レイチェルの傍にいたかった。貴族階級のレイチェルに会うために、それこそ必死で努力した。騎士見習いとしてやっと登城を許される身になって、それからも毎日厳しい下積み生活ではあったが、それでもレイチェルの近くにいる、そう思うだけで夜も眠れないほどに胸が高ぶった。
自分勝手な、一方的な想いだけを膨らませて――。
レイチェルの視線に気付いたのはいつだったか。その視線が見つめる相手はアロウェイで、その感情が兄を慕うもの以上であると理解した時、世界が暗転した。嫉妬と呼ぶにも醜すぎる感情が、心の奥底に渦巻いた。その感情をレイチェルにぶつけてしまいそうで、そうして大事にしたいはずのレイチェルを壊してしまいそうで、それからは夜毎遊び歩いた。
幸いなことに、少しばかり出来の良い容姿と騎士という階級のお陰で、相手には不自由しなかった。一夜限りの相手を、何人抱いたことだろう。
それでも、レイチェルへの想いは霞んでくれることはなくて、事あるごとにレイチェルにも誘いの声を掛けた。
だが、レイチェルが遊びに応じる人間ではないことは、十分知っていた。だからこそ、安心して誘いを掛けたのかも知れない。ふざけ合うことを楽しみ、口をついて出て来てしまう本音を冗談にしてしまえるように願いながら――。
それなのに、あの夜、ほんの一瞬だけ見せたレイチェルの隙に、気が付けばレイチェルを組み敷いていた。夢の中で何度も犯したその身体を、無我夢中で抱いた。高ぶる感情を抑えることは出来なかった。無理を強いていることを頭の隅では理解しながらも、ただ貪り尽くすように自分自身を突き進めた。
無理矢理開かせたレイチェルの身体は、想像通り無垢で、そして、想像以上の歓喜をもたらした。
もう友人関係に後戻りできないことを知りながらも、不思議と後悔という文字は浮かばなかった。
一度手に入れてしまうと、貪欲になる。
抱きたい、愛したい、愛されたい。
あの頃の自分はどうかしていたのかも知れない。
『俺に抱かれな。恋人として、ずっと……』
それは正しく脅迫だった。
アロウェイに抱いている感情を知られたくない、そう必死に願っているレイチェルを、脅した。脅して手に入れた。
全くもってひどい男だ。
それでも、そんなひどいことをしてもレイチェルを手に入れたかったのだ。そうして、レイチェルの想いに気付きもしないアロウェイに変わって、レイチェルを幸せにしたかったのだ。
『承知した』
そう言って、レイチェルが『恋人契約』を受けた時、覚悟を決めた筈だった。
どんなに長い時間を掛けても、レイチェルを幸せにする、と。
これまでの遊びの関係は全て清算した。出来うる限り、レイチェルを大切にした。そんな自分の態度に、レイチェルが戸惑っているのがよく判った。初めは、それすら何処か嬉しかった。
欲しくて堪らなくて、何度も身体を合わせた。優しく抱くと、レイチェルは戸惑いながらも必死で応えてきた。そんなレイチェルが愛しかった。愛しくて堪らなかった。
しばらくして、レイチェルの全てが欲しくなった。会っていない時間、『恋人』でいない時間、レイチェルがアロウェイを想っている、そのことさえ許せなくなった。自分だけを見て欲しくて、突き動かされるようにレイチェルを抱いた。少なくとも抱いている間だけは、レイチェルを自分のものに出来るから――。行為が終わるとレイチェルが離れていくような気がして、何度も何度も、抱いた。
レイチェルの気持ちを考えてやる余裕などなかった。
何も見えていなかった。
あの夕立の日もそうだった。
少し考えれば、あの日あの場所にアロウェイがいるだろうことに気付けていたはずである。気付いていたら、あの場所でレイチェルを抱いたりしなかった。アロウェイに見られるなんてヘマはしなかった。レイチェルを傷つけるつもりはなかったのだから。
だが、何も見えていなかった自分は、そんな簡単なことにも気付けなかった。その結果、考えられる限りの最悪な方法で、レイチェルを傷つけた。
レイチェルは、愛してもいない他の男に抱かれる姿を、愛しているアロウェイに見られたのだ。それだけではない。『レイチェルの想いに気付いていた』と、その上で『答えることなど出来ない』と、その場でアロウェイにそう宣告された。
――『恋人契約』は、終わった。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、ここまで傷ついたレイチェルを癒すことが出来るのだろう。
振り返ることのないレイチェルを見送りながら、そう思った。
そして、その時になって初めて、これまでレイチェルの気持ちを置き去りにしてきたことに、気付いた。
結局、レイチェルを一番傷つけてきたのは自分だと、やっと判った。
レイチェルの幸せを願うなら、自分がいなくなればいいのかも知れない、ふとそんな考えすら過った。
そう思うと、レイチェルの背中に声を掛けることが出来なかった。
情けないことに、それでもレイチェルに未練があった。どうにかしてレイチェルを手放さずに、レイチェルを幸せに出来ないものかと思案した。
本当に愛しているんだ、と。
幸せにしたいんだ、と。
そう伝えることが出来たら、レイチェルはどんな顔をするだろう。何を今更、と呆れるだろうか。ふざけるな、と怒るだろうか。
いや、レイチェルのことだ。真剣に答えてくれる、そんな確信もあった。
でも、聞いてしまった。
“アロウェイも、レイチェルを、愛している――”
両想いじゃないか……。
じゃあ、これまで自分がしてきたことは何だ……?
茶番もいいとこだ。
一方的な想いを押し付けて、脅迫して無理矢理手に入れておいて、幸せにしてやる、だと?
その上、今更本音を告げてどうする?
どうやっても、レイチェルを苦しめるだけだ。
ならば、今度こそ、この想いを断ち切らなくてはならない。
そうして、レイチェルを手放さなくてはならない。
そう思ったのに――。
最後を覚悟して、感情の高ぶるままに、手ひどく抱こうとした自分に、レイチェルは何と言った……?
『愛している』、と?
もしかしたら……。もしかしたら――。
振り返りたい。
もう一度、レイチェルを抱き締めたい――。
静まり返った部屋の中、蒼白になるほど拳を握り締めて、扉を前にキースは1つ息を吸い込んだ。それと時を同じくして、カッ、カッ、という微かな靴の音が響いた。誰かが近付いてくる。それが誰かなんて、考えなくても判りきっていた。
迎えが来たのだ。
今度こそ、レイチェルを解放してやれる……。
なのに、この気持ちは何だ……?
振り切るように小さく首を振り、キースは握り締めていた拳を開いた。目の前の扉を押すと、ギィという音とともに扉が開かれていく。
そうして、扉から半身だけ身を乗り出し、
「ここだ……」
薄暗がりに向かってキースはそう声にした。
キースの深緑色の瞳に、アロウェイの姿が映っていた。
「レイは?」
出来るだけ感情を抑えた声で、アロウェイはそう問い掛けた。
「随分と遅かったな。……お陰で堪能させてもらったぜ?」
口元に笑みを浮かべて見せながら、キースは親指を立てて、アロウェイの視線を寝台へと促した。そこには、乱れた衣服のまま、ぐったりと横たわるレイチェルの姿があった。その様子に、アロウェイの眉が微かに顰められる。
「あんたにやるよ。あんたの弟、ホントいい身体してるぜ? 抱いてやれよ」
次の瞬間、その場の温度が下がる。アロウェイの翠色の瞳が、キースを真っ直ぐに見据えていた。そうして、その視線を受け止めるキースの視線も、同じくらい厳しい眼差しだった。
長いその沈黙を破ったのは、アロウェイの深い溜め息だった。
「……レイの話は、聞いてやらなかったのか? それとも、聞いた返事がそれなのか?」
そのまま数歩歩いて、アロウェイは何かを見つけたのか、床にしゃがみ込んだ。
「お前が要らないというのなら、遠慮はしない。いいのか?」
「……もともと、レイは俺のもんじゃねぇ」
アロウェイの背を見つめながら、キースはそう声にした。黙っていると押し潰されそうだった。
「あんただって知ってたんだろ? レイがずっとあんたを愛していることを。で、あんたもレイを愛してるんだろ? 世間体とか何とかあるかも知らねぇけど、もういいじゃないか。……レイを、泣かせるなよ。……レイを、幸せにしてやってくれよ……」
感情が高ぶっていたのか、最後の方は声が震えた。情けないことに、俯くと涙が零れ落ちてしまいそうで、キースは天井を仰いだ。
その胸に何かをとん、と押し付けられる。
「レイの宝物だ」
アロウェイの説明に視線を送ると、それは小さな短剣だった。
「……お前のものだろ?」
柄に刻まれているのは、チェスター家の紋章だ。幼いあの日、レイチェルに渡した短剣に間違いなかった。
「レイチェルは、生まれつき身体が弱くてな。長く生きられないとそう宣告された。それを知った母は、レイから危険を遠ざけることに必死だった。レイチェルという女名を付けられたのも、女の子のように部屋に閉じ込められ、剣を持つことも許されなかったのも、そのためだ」
静まり返った部屋の中に、アロウェイの声が響く。
「いっそのこと女の子だったなら良かったのにな。だが、レイは男だ。しかもあれで激しい気性を隠し持っている。剣を持ちたがっていたことも、押し殺したその感情も、みんな気付いていた。気付いていて知らない振りをしていた。一日でも長く生きていて欲しい、そう願わずにはいられなかったからだ。……そして、ある日、レイが家出をした。あの日のことは今でも覚えている」
アロウェイの声に耳を傾けたまま、キースは渡された短剣を握り締めた。
その日のことは、キースもよく覚えていた。
「レイは、その剣を持って帰って来た。『剣の修行をしたい』と、初めてそう口にした。父は怒ってその剣を取り上げたが、レイは引き下がらなかった。あの日を境に、レイの何かが変わったんだ。不思議なことに、それから床に伏せることもなくなった。レイの運命を変えてくれた、この剣の持ち主に、幼い私はどれだけの感謝と嫉妬を覚えたことか……」
くすりと笑みを零し、そうして、アロウェイはキースに向き直った。
「レイが愛しているのはお前だ。レイは、私の中にお前の影を追い掛けてきたんだから」
「……嘘、だ……」
信じられなかった。レイチェルに、そんな素振りは見られなかった。
「そう思うのも無理はない。当のレイだって、さっき気付いたらしいからな。だから、お前に話をしたい、そう言っていたはずだが?」
ぐらり、と世界が歪むのを感じ、キースは扉にもたれた。そのままずるずると座り込む。
『話がしたい』と、レイチェルは何度もそう言った。
聞く耳を持たなかったのは、自分だ。
それでも、『愛してる』と、そう声にしてくれた。
それすら拒絶したのは、自分だ。
アロウェイの長い溜め息が響く。
「こんなに長話をしたのは生まれて初めてだ。最大限に譲歩してやった。これでもまだ、レイを要らないというのなら、容赦はしない。……それから、お前がレイに仕出かした数々の悪行を許したわけではないからな」
仁王立ちのまま、アロウェイの翠色の瞳が、キースを見据えた。
「今度はお前の番だ。ちゃんと答えろ。お前は、レイをどう思っている?」
しん、と静寂がその場を支配した。
瞬く星々だけが、淡い光を降らせていた。
「ずっと、レイを愛していた……」
アロウェイの向こう、寝台で眠ったままのレイチェルを真っ直ぐに見つめたまま、キースはやっとそう声にした。胸の中の何かが、すとん、と落ちたような気がした。
「今この瞬間も、レイを愛してる」
今度ははっきりと、キースはそう声にした。
「……キース」
寝台の中から、掠れた、それでも綺麗なその声が、キースの名を呼んだ。
キースの視線の先、レイチェルがゆっくりと重い身体を起こそうとしていた。だが、無理を強いた身体は力が入らず、寝台から崩れ落ちる。
「レイ!」
駆け寄って、キースはその身体を支えた。その腕に全身を預けながら、レイチェルが安堵の息を落とす。
そのまま、レイチェルはふわりと微笑んだ。
星々に女神がいるのなら、その美しさをレイチェルに降り注いでいるのかも知れない。そう思わずにはいられないほど、その笑顔は輝いて見えた。
「兄さん、……ありがとう」
不思議なほど心が澄んでいくのを、レイチェルは感じていた。
素直に向き合えば、自分の殻に篭り、これまで見えなかったものが次々と見えてきた。
厳しい表情を見せる父の想いや、哀しそうに見つめる母の想い、そうして、静かに見守ってくれてきた兄の想い――。
皆に疎まれている、今まで何故そう思っていたのだろう。
こんなにも愛してくれているのに――。
そして――、
「キース、愛してる」
そう、レイチェルは口にした。
再び遠のいていく意識の中、今度はしっかりとキースの想いを掴むかのように、キースの服の裾を握り締めて、レイチェルは瞳を伏せた。
その後、高熱を出したレイチェルは、夜が明け、再び陽が暮れても、目覚めることはなかった。