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きらきらと窓から零れ落ちる木漏れ陽が、大きな寝台にやわらかい光の水玉模様を描き出していた。その寝台の上に横たわったまま、レイチェルは何処かぼんやりとしながらその光景を見つめていた。
広大な敷地を誇るウェイクフィーズ邸において、最も日当たりが良く、風通しも良い部屋である。寝台からは、澄んだ青空も見える。その部屋は、幼い頃寝台の上で過ごすことが多かったレイチェルを思い、両親が用意した部屋だった。
『レイは生まれつき身体が弱くてな。長くは生きられないと宣告されていた』
木々を渡る鳥たちの囀りを聞きながら、レイチェルはアロウェイの言葉の意味を考えていた。
――知っていた。
侍医も父母も決して口にはしなかったが、自分の身体のことだ、判っていた。だから、そのことを話す使用人たちの噂を耳にしたときも、不思議と驚きはなかった。
『それを知った母は、レイから危険を遠ざけることに必死だった。……1日でも長く生きて欲しい、そう願わずにはいられなかったからだ』
――初めて、知った。
哀しそうに見つめてくる母の視線が苦手だった。両親の期待に添えない自分が疎ましかった。
剣を取り、修行を積むようになっても、怯えるような母の瞳から不安が消えることはなかった。
そんな母から逃れるように、いつしか出来るだけ視線を合わせないようにしていた。
母譲りの美貌だと、誰もが賞賛した。だが、欲しいのはそんな言葉ではなかった。
ウェイクフィーズ家に生まれた男子として、父母が誇れるような人間でありたかった。
そう、兄のように――。
まるで女の子のような容姿。屈強とは程遠い、弱い身体。
そんな男の子を産んでしまった自分を、母は責めているのかも知れない。そう思うと、胸が苦しくなった。生きていていいのだろうか、そんなことを考えた時期もあった。
「……1日でも長く生きて欲しいから」
アロウェイの言葉を繰り返して、レイチェルは瞳を伏せた。そして、母の眼差しを思い出してみた。
何処か哀しげな母の瞳は、それでもいつも自分を見ていた。
熱を出す度に、しっかりと手を握り締めてくれた。
全ての苦しみを引き受けようと、母はそう願ってくれていたのかも知れない。繋いだその手に吸い取られるかのように痛みも苦しみも和らいでいくのを、幼い自分は確かに感じていた。
開いた窓から入る心地の良い風が、レイチェルの灰色がかった金髪を揺らしていた。1つ深呼吸をして、その清々しい空気を身体に取り込むと、レイチェルは寝台から立ち上がった。そうして、窓辺に歩み寄り、窓枠に手を掛けた。レイチェルの視界に光に輝く緑色の景色が飛び込んでくる。
「今まで、何も見えていなかった……。いや、見ようとしなかったのは私か」
小さくそう声にして、レイチェルは口元に笑みを浮かべた。
青空は何処までも澄んでいて、惜しむことのない光を地上に降り注いでいる。耳を澄ませば、木々を渡る風の音や遠くで鳴く鳥たちの声が聞こえてくる。
「綺麗だ……」
薄紫色の双眸にその光景をしっかりと映しながら、レイチェルはそう呟いた。
この世界を綺麗だと、本当にそう思った。
この気持ちを、キースにも伝えたい。
お前を、愛している――。
「……レイチェル?」
扉を叩く音と同時に、静かな高い声がレイチェルの名を呼んだ。程なく扉が開かれる。窓辺に立ったまま室内に視線を戻したレイチェルの瞳に、母の姿が映った。
レイチェルと良く似た面差しが、心配そうにレイチェルを見つめる。
1つ息を吸って、レイチェルはその眼差しを真っ直ぐに受け止めた。
「……ありがとう」
そう言葉に出来て、レイチェルの口元にやわらかい笑みが浮かぶ。その僅かな変化を、母の瞳は見逃さなかった。
「レイ……」
小さく息を詰めて、母が瞳を見開く。笑顔を返したその綺麗な瞳からは、ぽろりと一筋だけ涙が零れた。
――大切にしたい。
母の気持ちに気付けなかった自分は、きっとたくさん傷つけたから。
母の姿を瞳に納めながら、レイチェルはそう思った。
「……いい子ね、レイチェル」
零れた涙をそっと拭いながら、母が微笑む。幼い子供をあやすようなその台詞に、レイチェルは少しだけ苦笑した。そうして、互いに見詰め合ったまま、くすくすと笑みを零し合った。
「うふふ。……レイったら、今すぐにでも飛び出したいってお顔してるわ」
少女のような笑顔のまま突然そう告げられ、レイチェルは驚きの声を上げた。
「レイはすぐお顔に出るもの……」
母の手が伸ばされ、レイチェルの頬にそっと触れる。
「判っていたわ。レイが剣を持ちたがっていたこと。父さまの血をしっかりと受け継いでいること。でも、レイに何かあったらどうしよう、それしか考えられなかった……。だから、父さまのお願いしたの。……父さまも同じ思いだったのね。あなたに剣を持たせなかった。家に閉じ込めて……。ごめんなさい」
告げられた言葉の端々に母の想いを感じながら、レイチェルは母の手に自分の手をそっと重ねた。そうして、不思議な程素直にその言葉を受け止められる自分に、レイチェルは少しだけ驚いた。
「母さまも、あなたに答えなきゃ……」
そう前置きして、母は重ねた手をじっと見つめた。そうして、小さく息を吸い込んでから、顔を上げた。
「行きなさい、レイチェル。あなたの思うように」
きっぱりとそう言い切って、母は1つ息を吐いた。それでいて、レイチェルの頬に触れたままの手が微かに震えてしまうのを止められなかった。
手放したくない、そう思う気持ちが、母の中に湧き上がってくる。
瞳を伏せると、レイチェルの小さな手を握り締めていた日々を思い出した。
熱を出して、息を上がらせるレイチェルの姿を見ては、泣いてばかりいた。
その度に、まるで慰めるかのように、レイチェルの小さなその手は、しっかりと握り返してくれた。
この子を、ずっと見てきた。
「今、あなたの背中を押してあげることが出来なければ、母さまは一生後悔するわ」
震える手で、母はレイチェルの身体を抱き締めた。
「大きくなったわね、レイチェル。でも母さまはこれからもいつでもあなたを見ている。私の大切なレイチェル。あなたが選んだ道なら、今度こそ母さまは全力で応援したいの」
そう言葉にして、母は顔を上げた。笑顔だった。
光が降り注ぐその顔は、レイチェルにもとても晴れやかに思えた。
「夕暮れまでには戻ります」
そう告げて、レイチェルは窓枠に手を掛けた。
「そうしてね。アロウェイに見つかったら怒られちゃうわ」
レイチェルの背中に向かって、何処か楽しそうに母は笑った。その声に、不思議な嬉しさが込み上げて来るのをレイチェルは感じた。自然と口元が緩む。そうして、一度振り返り、満面の笑顔を返してから、レイチェルは窓から身を翻した。
「ま、何て素敵な笑顔……」
レイチェルが去った後、母は感嘆の声を漏らした。
「レイチェルの想い人って、とっても果報者ね」
光が降り注ぐ室内に、母の楽しそうな声が響いた。
上品とは程遠いその酒場で、キースは酒杯を傾けていた。夕暮れには少し早いその店内には、人影も疎らだった。店の外は、まだ太陽の光が輝いているはずである。だが、主人の意向か何だか判らないが、外の光をほとんど取り込まない造りの店内は、隙間から微かに差し込む光を除けば、十分な暗さを保っていた。
そんな酒場だからこそ、好んで来る客も少なくない。キースもその1人だった。
カウンターの一番奥に陣取り、時が過ぎるのを待った。
死刑台に上る囚人の気分とはこういうものなのかと、ふと思う。いや、その方が何倍もましだ。自分の首1つで良ければいつでも差し出してやるのに――。
今この瞬間も、レイチェルが生死を彷徨っているかと思うと、1秒1秒が拷問のように感じられた。
『レイの手を離すなよ』
最後に聞いたアロウェイの声が、脳裏に響く。
もちろん、離すつもりなどなかった。
レイが大切だ。何をおいても、全てを捨てても。
レイも自分を見ていてくれた。『愛している』と確かにそう言ってくれた。
自分のこの手が、レイを幸せにできる。そう思うと歓喜に狂ってしまいそうだった。
だが、この手は、レイを死に追い込むことも出来る――。
怖い。
生まれて初めて、本当の恐怖というものを感じた。
自分の中の感情の激しさを、改めて知った。
気持ちが強い分、レイを壊してしまう。
一度手にしてしまったら、きっと――。
アロウェイの言葉どおりなら、今回は運良く命を取り留めてくれるのかも知れない。でも、もし今後レイが離れていくようなことがあったら――、俺はまたレイを殺してしまうかも知れない。
怖い。
それでも、レイを愛している。
手放したくない――。
――そして、もう1つ問題があった。
カルハドール王がどう出るか……。
レイを奪わせはしない。
でも、そのためには、どうすればいいのか。
「小難しい顔をして、どうしたの? キース」
少し高い声に名を呼ばれ、キースは視線を送った。
「ジェイ……」
「久しぶりだね」
くすりと笑って、ジェイと呼ばれたその青年はキースの隣に腰を下ろした。薄暗い店内にあっても、その青年の造形の良さは十分に見て取れた。くせなのだろうか、赤い巻き毛に指を絡めながら、ジェイは覗き込むようにじっとキースを見つめた。絡め取るような視線だ。くっきりと際立ったその二重の瞳は、ジェイの内面を表しているようだ。
キースにとって、知らぬ相手ではない。というよりも、よく『知った』仲だ。
初めて会った日、声を掛けたのはジェイの方だった。その日のうちに、身体を合わせた。それからも、互いに気が向けば、行為に耽った。ただ、そこに愛という言葉はない。キースにとって、ジェイは当時何人もいた遊び相手の1人だった。それはジェイにとっても同じだ。ただ、互いの身体の相性は良かったし、外見も申し分ない。そういうわけで、当時最も多く身体を合わせた相手であった。
「……よせ、ジェイ」
考えを巡らせていると、ジェイの腕が絡みついてきて、キースは拒絶の声を上げた。それでも止めようとしないジェイの指が、キースの首筋に回されていく。
「よせよ」
もう一度そう声にしたところで、ジェイの唇がキースの唇に触れた。そのまま、深く口付けようとするジェイの後ろ髪を掴んで、キースはジェイの顔を引き剥がした。
「よせって言ってんだろ。ここで犯しちまうぜ?」
「いいよ、キースになら」
キースの不機嫌な声をものともせず、ジェイはそう即答した。片手をキースの首に絡めたまま、もう片方の手で自らの胸元の釦を外していく。
「抱いて……。このところ、とんとご無沙汰だったじゃないか……」
舌で唇を濡らして、ジェイは誘うように少し甘めの声を上げた。これで落ちない男はいないはずだった。
だが、
「よせ」
短い言葉とともに絡めた腕を振り解かれ、ジェイは瞳を見開いた。ただ、キースを誘うかのように胸元だけ肌蹴て、白い肌を覗かせていた。
「ふうん……。つまんないの」
そう呟いて、ジェイが二重の瞳をすうっと細める。何かを予兆させるその視線に、キースは酒杯を傾ける手を止め、ジェイに視線をやった。
「……愛しのお姫さまを手に入れたら、もう俺は要らないんだ?」
少しだけ唇を尖らせるようにして、ジェイはそう言葉を続けた。
「レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズ」
ジェイの口から出たその名前に、キースは一瞬息を呑んだ。
驚くことではないことは知っていた。恋人契約を交わした時に、ここいら一帯にもその噂は流れたはずだ。
だが、正直なところ、今は、レイチェルのことを聞きたくなかった。知るのが怖かった。
もしかして、レイに、何かあったのか――?
全身から血の気が引いていく。そう感じた時には、酒杯はキースの手から離れ、足元で音を立てていた。
「……キースの恋人になったって噂、聞いてる、けど……?」
そんなキースらしくない様子を、驚きを隠せない表情でジェイは見つめた。
「まさか、本気、とか……? ……相手は、ウェイクフィーズだよ?」
ぽつりとそう呟いた後、ジェイは苦笑いを浮かべた。
その言葉と表情の意味は、キースにも良く判っていた。
セレン王国では、身分の差はさほど厳しくはない。才能と努力があれば、誰だって王城に登ることが出来るし、重要な役職に就く機会にも恵まれる。キース自身、実家は商家であるが、騎士隊に所属している。だが、この国においても、『別格』と言える家系が2つだけ存在する。1つが、初代王ディーンの血を継ぎ、精霊石を守る宿命を背負った、セレン王家『ラ=セレン』、もう1つが、建国時からその王家を支え続けている『ウェイクフィーズ』である。
ただ、セレン王家と異なり、ウェイクフィーズ家には特別な能力があるわけではない。キースも昔は知らなかったが、ウェイクフィーズ家に生まれた人間は、血の滲むような努力でもって、その責務を果たしている。
「ははは……。イク時いつも呼ぶ『レイ』が、まさか、ウェイクフィーズの次男坊だとはね」
一しきり笑った後、今度は少し呆れ顔になってそう締め括り、ジェイはやっと沈黙した。それでも隣の席から立ち上がろうとしないジェイを一瞥した後、キースは再び酒杯を煽った。
少しずつ騒がしくなっていく店内にあって、その一角だけ奇妙な静けさに覆われていた。
「……でも、ここに来たってことは上手く行ってないんでしょ? ……仕方ないよ。環境が違いすぎる。高嶺の花もいいとこだ。……無理すると自己破綻するよ?」
沈黙を破って、ジェイの声がぽつぽつと零れた。その言葉の意味を考えながら、キースは1つ長い息を吐いた。
「……レイのためなら、何だって出来る」
思わず漏らしたキースの言葉に、隣に座るジェイが今度こそ本当に呆れ顔になる。その表情に気付いて、キースもまた自分自身に呆れた。
考えてみれば、初恋だ。
いつから追い掛けているのだろう。
勘当されてまで騎士になったのだって、レイに近付くためだ。見ているだけで構わない、そんな綺麗事を言いながら、当直だったあの夜、一瞬見せられた隙に、無理矢理レイを抱いていた。
恋人関係を強要して、レイの身体を手に入れておきながら、心が手に入らないと勝手に苛立って……。
我ながら、呆れるほどの執着心だ。
このままではいつか本当にレイを殺してしまうかも知れない。
「……潮時かもな」
「いいよ、辞めちゃいなよ。俺が養ってあげるから」
ぽつりとそうキースが呟くと、嘘なのか誠なのか、隣でジェイがそう答えた。
「……ん?」
その時、ふと、ざわざわと周囲が騒がしくなる気配に気付いて、キースはジェイから視線を外した。店の入り口に人だかりが出来ている。ジェイもその様子に気付いたのか、くるりと振り返って扉の方に視線を送った。
「よう。随分とまた毛色の違う子猫ちゃんだな」
下卑た声が聞こえる。予想通り、ここらでも特に柄の良くない連中の姿を確認し、キースは腰を浮かせた。何処の誰だが知らないが、見過ごすわけにもいかないだろう。
「……キースに用がある」
答えるその声は、店内のざわめきを打ち消すには十分な声だった。さほど大きな声ではないのに、鈴の音のような美声は、驚くほどよく通る。
あまりに聞き覚えのあるその声に、キースの心臓は跳ねた。駆け寄ろうとする足がもつれそうになる。何とか転倒することは免れながら、人だかりを割って入ると、声の主はゆっくりとキースに視線を向けた。
それは、間違いなくレイチェルその人だった。