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「キース……」
その綺麗な瞳にキースの姿をしっかりと映し、レイチェルはキースの名前を呼んだ。それは、鈴の音のようでいて、しっかりとした質感を持った声だった。レイチェルらしい、背筋をぴん、と伸ばした立ち姿がそこにあった。
生きている確かなその存在感に、キースは言葉を失った。
――生きていた。生きていてくれた。
襲い来る安堵感に、キースは膝から力が抜けるのを感じた。ともすれば崩れ落ちてしまいそうになる身体を何とか支え、キースはもう一度レイチェルの姿を確認した。
少し息を弾ませた肩も、揺れるアッシュブロンドも、レイチェルが確かに生きていることを証明していた。だが同時に、どんなに綺麗な笑みを乗せていても隠すことの出来ない青褪めたその顔色は、キースがレイチェルにくぐらせた死地を物語っていた。
1つ間違えれば、レイチェルはここにいなかったのだ。
そう思うと、キースの背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「……キース?」
呆然と立ち竦むキースの様子を訝しむように、ほんの少し首を傾げながら、レイチェルはもう一度キースの名前を呼んだ。その動きに、レイチェルの肩をアッシュブロンドがさらさらと流れた。
「……どうした?」
小さく1つ息を吸い込んで、レイチェルはキースに腕を伸ばした。だが、その手はキースに触れる直前で、空を切った。
「――お前、身体は?」
レイチェルの手を避けるようにすっと一歩だけ後退り、キースは重い口を開いた。キースの深緑色の瞳に、空を切ってしまった指先を見つめるレイチェルの姿が映った。
「あ……、」
小さくそう呟いた後、レイチェルは震えてしまいそうになる指先を握り締め、きゅっと唇を閉ざした。指先を見つめたままのその瞳は、明らかに揺らめいていた。それに気付き、キースは少し視線を外した。
今すぐ抱き寄せて、生きているレイをこの手で確認したい。
その強い欲望は、キースの中に確かにあった。
だが、それ以上に、
いつか、レイを壊してしまうかも知れない。
生きているレイチェルを前にした今、その恐怖は一段と大きさを増して、キースの全神経を支配しようとしていた。
「心配、掛けた……。身体は、もう、大丈夫だ」
レイチェルの声が、そう告げた。途切れがちなその声に、キースはちくり、と胸が痛むのを感じた。
今ここで、突き放すべきだ。
壊してしまう前に、レイチェルを手放してやるべきだ。
キースの頭の中で、誰かがそう告げた。
だが、
嫌だ。この手に抱きたい。
愛している、と声にしたい。
身体が、腕が、レイチェルを突き放すことを拒絶した。
たった一歩の距離が、キースには遠くにも近くにも感じられた。
「……そうか」
ただ短くそう答えて、キースは息を吐いた。落とした視線に、固く握り締めたレイチェルの指先が映った。その指先は、少しだけ震えているように思えた。キースの耳に、レイチェルの呼吸が届く。どんな表情(かお)をしているのだろうか、そう思うと、キースの胸はまた痛んだ。
「……ッ!」
それは突然のことだった。レイチェルの指先の震えが止まった。そうして、ひゅっと1つ息を吸い込んだかと思うと、レイチェルは呼吸を止めた。驚いて顔を上げたキースの瞳に、一瞬で間合いを詰めたレイチェルの姿が映った。
レイチェルの手が、キースの腕を掴んでいた。
薄紫色の瞳が、キースのすぐ前にあった。
「……キース、私は、お前と向き合いたい」
至近距離で見つめてくる瞳が、確かな何かをキースに伝えようとしていた。薄紫色のその瞳に、最早迷いの色はなかった。
「レイ……、」
強い意志を秘めたその瞳が、キースを遠い過去へと連れ去っていく。
この瞳だ。
そう思い、キースはレイチェルの瞳を見つめた。
悔し涙を浮かべながら、それでも必死に前を見ようとするこの瞳に心を奪われた。強烈に惹かれた。
これが、レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズだ。
「3日後だ。お前と剣を交わすことを楽しみにしている」
凛とした声が、そう告げた。
ふうっと息を吐くレイチェルの姿に、この言葉を伝えるためだけにこの身体でここまで来たのだと気付き、キースも1つ息を吐いた。
まったくもって、レイチェルらしい。
レイチェルの強さを軽んじていた。簡単に壊れてなんかくれやしない。
それが、レイチェルだ。
ふふ、と思わず笑みを零して、キースはレイチェルを見つめた。
3日後というのが何を指しているのかは、もちろんキースにも判っていた。
カルハドール王を歓迎するために開かれる剣術大会のことだ。だが、その裏では、レイチェルを自国に連れ去ろうとする、カルハドール王の画策がなされている。そのこともキースは知っていた。
「お前、出るつもりか?」
その身体で? と視線でだけ付け加えて、キースはそう問い掛けた。
「出ないわけにはいかないだろう?」
予想通りの答えに、キースは苦笑した。
カルハドール王の噂はキースも耳にしたことがあった。欲しいものは必ず手に入れる。色好きで残忍な性格だ。その上、それを行使するだけの権力もある。
レイチェルを剣術大会で優勝させ、それを名目にしてカルハドールに連れ帰るつもりらしい。
呆れ果てた計画だ。だがどうしようもないのも事実だった。レイチェルの言うとおり、レイチェルが出ないとなれば、次は何を言い出すか判らない。幼い王子をも標的にしかねない。
「……どうするつもりだ?」
「それを聞いてどうする? 私は私の出来ることをするまでだ」
レイチェルらしい答えが返ってくる。
何があってもレイチェルは出場するだろう。そうして、出場した以上、手を抜くことなんて出来ない性格であることはキースにも良く判っていた。
瞳を伏せ、キースはふう、と大きな溜め息を落とした。そうして、再び開いた深緑色の瞳に、レイチェルの姿を映した。
「止めてやるよ、命がけで」
きっぱりとそう声にする。
「期待している」
こつん、とキースの胸に頭を預け、レイチェルはそう呟いて、微笑んだ。
「あれが、レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズ」
去って行った後ろ姿を見送って、ジェイはぽつり、とそう呟いた。
「で、あれが本当のキース=チェスター、なのかな?」
軽口を叩いて気軽に遊ぶキースを思い出しながら、ジェイはくすくすと笑った。
「悔しいな。でも、ぐだぐだ言って酒を飲んでるキースより、今のキースの方がずっとかっこいいや」
そう声にして、キースが残した酒杯を傾ける。
「まあ、頑張んなよね」
そうして、ジェイは1人、空に向かって乾杯した。
「こんなとこにいたの、バド」
客室から続く小さな中庭に、探していた人物の姿を見つけ、シーマはそう声を掛けた。それに答えることなく、バドは真っ直ぐに立ったまま、月を見上げていた。その姿を映して、シーマの妖花のような蒼い瞳が揺らめく。だがそれを打ち消すように大きく1つ伸びをして、シーマはバドの傍に歩を進めた。羽織っただけの上着から覗く、細い内腿を情事の跡が伝う。それは、月光を浴びて艶かしく輝いていた。
「――陛下は?」
ようやく開いたバドの口から、事務的な問いがシーマに投げられる。
「夢の中」
短くそう答えて、シーマは妖艶な笑みを浮かべて見せた。
「散々僕の身体を抱いといてさ、夢の中では誰を抱いていることやら」
くすくすくす、と悪態を吐くシーマを、バドは呆れ顔で見下ろした。本来ならば不敬罪を問われるその台詞も、カルハドール王の一番のお気に入りであるシーマだからこそ言える台詞だ。そうして、あまり年の変わらないこの少年が、寝台の中でどれだけ妖艶に乱れて見せるかも、バドは良く知っていた。その本心はどこにあるのか、少なくとも好きでカルハドール王に抱かれているわけでないことだけは、バドも判っていた。長い付き合いだ。シーマの涙も見たことはある。でも、それは訊いてはいけないことだった。
「……いい加減、諦めたら?」
バドの隣に立ち、青褪めた月を見上げて、シーマはそう声にした。
「陛下はシドを抱きたがっている。いつまでもこの状態は続かないよ?」
月を見つめたままのシーマの表情に、いつもの笑顔はなかった。そのことが、シーマの台詞を重くしているように思え、バドはシーマから視線を外して、月を見上げた。
「僕だって、あの年にはもう陛下に抱かれていた。バドがいくら身体を張っても、もう無理だよ?」
シーマに言われるまでもなく、そのことはバドにも判っていた。一族を滅ぼされたあの日、シドに手を出さないという約束を交わし、バドはカルハドール王の手に落ちた。女子供も含め、一族皆殺しにされたのだ。それなのに、何故、自分たちだけを生かしたのか。
気紛れだ。
そう気付いた時、バドは自分の交わした約束の脆さを理解した。
考えてみると、カルハドール王の目的は、初めからシド1人だった。シドを手に入れたいがために、一族をいとも簡単に滅ぼした。そうして、シドのために身を張ろうとする、『砂漠の民の中で最も気高い一族の直系』を甚振ることを楽しんだ。
「……飽きたら、殺されるよ? バド」
そう告げるシーマの瞳の中で、月が揺れる。
「逃げなよ。この国に残って、そうして逃げ延びてよ」
その台詞に、バドは瞳を見開いた。そうして、視線を合わさないシーマをじっと見つめた。
「……それがお前の目的か」
「そうだと言ったら?」
「断る」
バドの声に、一瞬しん、と辺りが静まる。しばらくして、シーマは笑い声だけを響かせた。
「ふふふ。冗談だよ。本当はバドが邪魔なだけ。シドには堕ちてもらわなきゃいけないもの。後宮にいて、綺麗なままなんて許せないんだから」
月を見つめたままそう告げ、シーマはくるり、とバドに視線を向けた。妖艶に笑うその表情は、いつものシーマの姿だった。
「皆、堕ちちゃえばいい。レイチェルも、ロイフィールドも、……シドも」
月光の下、くすくすくす、と笑い続けるその顔を見つめ、バドは静かに息を吐いた。
快晴だった。
澄んだ空に、剣戟の音が響いた。爽やかな風に、汗が舞った。
「それまで。勝者アスラン」
その声とともに、アスランは喉元に突きつけた剣を下ろした。そうして、大きく肩で息を吐いた。
「見事だな、ハサウェイ」
セレン王国現国王ミルフィールド王の言葉に、ハサウェイ=ギィ=ウエィクフィーズは恭しく頭を垂れた。初出場であるアスランが勝ち上がったことで、ウェイクフィーズ3兄弟は全て午後からの決勝に残ったことになる。それは父親として喜ぶべきことだった。ただ、まだ姿を見せていない次男レイチェルのことだけが、ハサウェイの心を重くしていた。レイチェルは、病み上がりだというのに、どうしても出場するといって退かなかった。あれでいて結構頑固なことはハサウェイもよく知っていた。前回優勝者として決勝に出る栄誉を与えられているのだから、という気持ちも判らないでもなかった。だが、心配性の長男アロウェイまでもそれに反対しなかった。
何か裏がある――、ウェイクフィーズ家の当主として、そうしてセレン王国騎士隊を束ねる者として、ハサウェイは危機を肌で感じ取っていた。
「この者は?」
退屈そうに観戦していたカルハドール王が、そう口を挟む。その様子に気付き、ハサウェイはもう一度頭を垂れ、名乗りを上げた。
「ほう。では、あの3兄弟の父君か」
その問いに、ハサウェイは笑顔で答えた。だが、続く言葉に、その表情を強張らせた。
「美しい次男殿の姿が見えぬようだが?」
美しい――?
それが、不本意ながらレイチェルに対してよく囁かれる賛辞であることは、ハサウェイもよく知っていた。だが、カルハドール王の細めた瞳の奥には、何か良くない意思が感じられた。
「レイチェルは、去年の優勝者だもの。ねぇ、ハサウェイ?」
赤褐色の吊り目を輝かせた少年が割って入ってくる。ミルフィールド王の甥にあたるアルフィールド王子だ。重い空気を一瞬で消した無邪気なその甥に笑顔を投げ掛けて、ミルフィールド王は補足した。
「午後からは姿を見せますよ」
「それは楽しみなことですな」
そう答えて、カルハドール王は瞳をうっとりと細めた。
「……アルフ、こちらにおいで」
ごくっと1つ息を飲んで、ロイフィールド王子がアルフィールドの身体を引き寄せる。そのロイフィールドに舐めるような視線を送って、カルハドール王は笑顔を浮かべた。
「いや何、先日、レイチェル殿と約束を致しましてな。見事最後まで勝ち上がったら、我が国に招待して差し上げようと……」
「――え?」
思わずそう声を漏らしたのは、ハサウェイだけだった。だが、アルフィールドを除く全ての者が、その意図を考えた。
レイチェルを連れて帰るつもりだ――。
カルハドール王という人物を知れば、誰しもその考えに辿り着いた。その場に、嫌な沈黙が流れた。
「だが、もしも無様な試合を見せられるようでしたら、考えねばなりませんな。……どう思われるか? ロイフィールド王子?」
突然そう声を掛けられ、ロイフィールドは血の気が引くのを感じた。
固く口を閉ざしていたが、ロイフィールドは一度、カルハドール王に組み敷かれたことがあった。そうして、それを助け出したのは、レイチェルだった。そのことは何となくロイフィールドも覚えていた。
幼くとも聡明なロイフィールドの頭脳は、答えを導き出していた。レイチェルを連れ帰る、その脅しとして自分が使われていることに唇をきゅっと噛み締めて、ロイフィールドはカルハドール王を見据えた。
「――――それは、レイチェルの剣を見てから、ご判断いただきたいものです」
ハサウェイの声が割って入った。それは、静かな怒りを抑えた声だった。
その後、静まり返った空間には、ただくすくす、と笑うシーマの声だけが響いた。