Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 Crossing 

 第17話 


 陽が高く上った。それぞれの思惑を胸に、剣術大会の決勝の幕が切って下ろされた。
 勝ち上がったのは、下馬評どおりのウェイクフィーズ3兄弟、そうして、いつもなら一回戦敗退を決め込むキースだった。
 やっと姿を見せたレイチェルに、歓声が上がる。腰に佩いた剣の柄を握り締め、レイチェルは1つ息を吸い込んだ。レイチェルの両肺が爽やかな風に満たされる。正直なところ、身体はまだ剣を振るう状態ではないはずだった。だが、不思議なほど力が漲るのを、レイチェルは感じていた。勝ち上がる、そして、キースと剣を交える、そう考えると、身体の内から震えが湧き起こるほどだった。
「レイ、身体は……」
 弟の身体を思い、そう声を掛けかけて、アロウェイは声を失くした。
 向き合ったレイチェルからは、見えない炎が立ち上るかのようにも思えた。
「心配している場合ではないか……」
 そう呟いて、アロウェイは翠色の瞳の中に、レイチェルをしっかりと納めた。

 レイチェルの強さは誰よりも知っている。血の滲むような努力も、前を見続けるその眼差しも、アロウェイはずっと見てきたのだ。
 レイチェルを、愛している――。
 口にしないと決めたその想いを心に刻み、アロウェイは剣を抜いた。


 キィン、という金属音が響いた。
「……また腕を上げたな」
 痺れる右手を押さえながら、アロウェイはそう呟いた。その足元に、剣が落ちた。
「参った。いい剣だ、レイ」
 アロウェイの声に、レイチェルが肩で息を吐く。そうして、レイチェルは嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔に、アロウェイも笑みを返した。
「お前の幸せを願っているよ」
 愛している、の代わりにそう告げて、アロウェイはレイチェルの肩に腕を回した。そうして、案の定、再び発熱しているその身体を庇うように一礼し、静かにその場を後にした。


「兄さん、大丈夫?」
 退場するなり駆け寄ってくる弟に苦笑しながら、レイチェルはひらひらと手を上げた。
「アスラン。お前、次出番だろ?」
 アロウェイが、行け、と合図する。
「うん。――あいつが相手だ」
 ぴたりと足を止めてそう告げると、アスランは闘技場をきっと睨んだ。その険しい表情に、アロウェイは1つ息を呑んだ。初めて見る表情だった。
「……兄さんが許しても、俺は許さない。あいつのしたこと」
 明らかな殺意を含んだその声色に、アロウェイの背筋を冷たい汗が流れる。
「殺すつもりか?」
 思わずそう問い掛けたアロウェイに、アスランはゆっくりと振り返った。そうして兄たちの姿を見つめて、決意をきっぱりと声にした。
「生かしておくと、兄さんを傷つけるからね」
「――ッ、待て。アスラン」
 吐き捨てられたその言葉に、アロウェイは慌てて足を向けた。止めなければ、本気でそう思った。だが、アスランとアロウェイの足を止めたのは、レイチェルの静かな声だった。
「私のことはいい。邪念を捨てないと、勝てはしないよ」
 その言葉に、アスランがぎりっと唇を噛み締める。
「……じゃあ、勝ったら、殺してもいいんだね?」
 温厚なアスランからは一生聞けそうもないその台詞に、アロウェイは大きな溜め息を落とした。
「アスラン、お前……、」
「勝ったらな」
 口元に笑みを浮かべたまま、レイチェルがそう言い放つ。大きく頷いて、アスランは闘技場へと駆けて行った。

「……いいのか?」
 アスランの背中を見送り、アロウェイはもう一度溜め息を落とした。
 アスランが殺人者になることも、レイチェルが恋人を亡くすことも、ごめんだ。
「アスランにはまだ勝てないよ。私には判る。……ずっと見てきたんだから。あいつの剣を」
 そんなアロウェイの考えを一掃するような綺麗な笑顔で、レイチェルはそう答えた。


「おいおい、危ねぇ表情(かお)してるな……」
 一礼し、向き合った瞬間、キースはそうぼやいた。
 温厚なアスランがここまで怒りを顕にするなんて、相当腹に据え兼ねているのだろうと、改めてそう思う。
「……無理もねぇか」
 自分のしたことを思い出すと、納得するしかない。
 大切な兄貴を殺されかけたのだ、怒るなという方が無理だろう。
「殺すつもりだから」
 キースの考えを見抜いたかのように、アスランがそう言い放つ。
「生憎と、レイを哀しませたくねぇからな」
 そう答えて、とん、と一歩重心をずらし、キースはアスランの鋭い突きを避けた。反す剣でアスランが懐に飛び込んでくる。
「あんたが哀しませてるんだろう!?」
 がきん、という大きな音が響く。アスランの剣を剣で受け、キースは苦笑いを浮かべた。その手が、じん、と痺れる。
「重い剣だな……」
 レイチェルの軽やかさと、アロウェイの豪快さを足したような、そんな太刀筋だった。あと数年もしたら、かなりの使い手になることは容易に推測できた。だが、惜しむらくは、まだ成長しきっていないその身体だ。
「……すまなかった」
 短くそう謝罪すると、キースは両腕に力を込めた。腕まくりをした上腕に筋肉が浮かび上がる。
「だが、2度と泣かさねぇから」
 そう宣言して、キースはアスランの身体を押し返した。
 押し飛ばされ、体勢を崩しながらも、アスランはキースから視線を外さなかった。その瞳には怒りの色が浮かんだままだ。
「……じゃあ、あんた、兄さんの前からいなくなれよ。俺が兄さんを守るから」
「てめぇじゃ無理だ」
 キースの返答に、体勢を整えなおしたアスランの瞳が一層険しくなる。
「あんたには負けない!」
 そう告げて剣を握りなおすと、アスランは気合いの声とともにキースに剣を振り下ろした。重心をずらしたキースの髪が、風に舞う。
「腕がどうこういうんじゃねぇ。てめぇに何かあったら、レイが哀しむ。だから無理だと言っている」
 素早く繰り出されるアスランの剣を、すべて交わしながら、キースはそう告げた。
「じゃあ、あんたはどうなんだよ!」
「俺か?」
 一瞬の隙を見つけて、キースがアスランの懐に飛び込む。
「――ッ!」
 次の瞬間、アスランはぴたり、と動きを止めた。そのアスランの胸元、繰り出されたキースの突きが、胸を貫く寸前で動きを止めていた。その瞬間、勝敗は決まった。
「俺に何かなんてあるわけねぇ。させねぇ。そう決めた」
 にっと口元に笑みを浮かべて、キースはそう答えた。
「……何なんだよ、何処から来るんだよ、その自信」
 呆れたようにそう呟き、アスランは視線を巡らせた。
「これが、キース=チェスター?」
 そうぼやいたアスランの瞳に、レイチェルの笑顔が映った。



 本日最大の歓声が上がった。剣術大会最後の試合に、観衆の興奮も頂点に達していた。
 その中央で、レイチェルは向かい合うキースに視線を向けた。レイチェルの瞳の中で、大剣を軽々と持ち上げたキースがにっと笑う。
「本気で行くぜ?」
 低い声で、キースはそう宣言した。そうして、キースは肩をとんとんと叩いていた大剣をくるりと回転させた。すうっと空気が変化するのを、レイチェルは感じた。ぴたり、と大剣を構えたキースからは、見えない何かが立ち上っていた。

「あいつが構えたところ、初めて見た……」
 2人を見つめるアスランが、ぽつりとそう漏らした。
「あいつも本気、ということだな」
 隣でそう答えたアロウェイに、アスランが悔しそうに唇を尖らせて見せる。
「じゃあ、さっきは本気じゃなかったって?」
「かもな」
 レイチェルに向かい合うキースは、さっきアスランが戦ったキースとは全く別人に見えた。
 そうして、アロウェイとアスランが見つめる先、決勝戦が始まった。
 先に仕掛けたのはレイチェルだった。細身の剣が舞った。風を切る音が届いた時には、レイチェルは既に反対側で剣を構えていた。
「……2度?」
「いや、4」
 アスランの問いにそう答え、アロウェイは思わず忘れていた呼吸を落とした。
 あまりにも速い突きだった。観客たちの目には、レイチェルがキースの横を擦り抜けたようにしか見えなかっただろう。ここにいる騎士たちですら、剣の残像しか追えなかった者がほとんどだった。
 左右へステップを踏みながら、鋭すぎる突きを4度繰り出して、レイチェルはキースの脇を擦り抜けた。
 あまりに見事なその剣術は、そうしてまた舞うような美しさだった。
「まいったな。レイもさっきは本気じゃなかったってことか」
 準決勝で向かい合ったレイチェルの剣を思い出し、アロウェイは溜め息を落とした。
「きれい……」
 食い入るようにレイチェルの剣を見つめるアスランがそう呟く。
 流れるような動作一つ一つに無駄はなく、その全てが次の動作へと繋がっていく。レイチェルの剣は、洗練された剣舞を見ているような錯覚さえ与えた。それでいて僅かな間隙を縫って繰り出される突きは、あまりに速く鋭いものだった。
「強い……。でも、その兄さんと互角に戦っている……」
 とん、と踏み込んだキースの剣がレイチェルに振り下ろされる。流れるような動作でその剣をかわし、身体を反転させると、レイチェルはキースの懐に飛び込んだ。反射的に身を翻したキースの耳元をレイチェルの剣が擦り抜ける。紙一重のその剣は、キースの髪を風に舞わせた。

 ふうっと息を吐く、キースとレイチェルの視線が絡まった。

「レイ、」
 低い声で名を呼ばれると、レイチェルの背筋はぞくり、と震えた。深緑色をしたキースの瞳が真っ直ぐにレイチェルを捉えた。
「諦めるのはもう止めた。俺がお前を幸せにする。いいか?」
 きっぱりとそう言って、キースは片方の口角を持ち上げた。その台詞に一瞬だけ瞳を見開き、レイチェルは大きな溜め息を落とした。
「私の生き方は私が決める」
「可愛げがねぇの」
 レイチェルらしいその返答に苦笑しながら、キースは楽しそうに笑みを浮かべた。
「決死のプロポーズを断るなよ」
 その言葉に、レイチェルが僅かに頬を染める。その姿に、今度はキースが瞳を見開いた。
「そんな表情(かお)するなよ。押し倒したくなる」
「な……ッ」
 レイチェルが言葉を詰まらせる。その様子を見ながら、キースはまた楽しそうに笑った。
「行くぜ?」
 そう告げてキースが剣を構え直すと、レイチェルもまた剣を横一文字に振った。閃く剣の向こうにいるキースの姿を見つめて、レイチェルも知らず口元を綻ばせた。

 レイチェルが舞う。その剣を、時にかわし、時に受けながら、キースの剣も舞った。
 いつまでも見ていたい、見る者全てがそう思い始めたその時、勝敗は決まった。

 レイチェルの剣が、宙を舞った。そうして、くるくると回って、離れた地面の上に突き立った。
「お前の勝ちだ」
 喉元に向かって構えられたキースの剣先を見据えて、レイチェルはそう呟いた。そうして、ふふ、と満足そうに笑みを零した。
 大歓声が上がる。それに応えるように片手を上げながら、キースはレイチェルの腕を引き寄せた。
「まだだ、レイ。倒れるなよ」
 キースの声に、レイチェルは顔を上げた。そうして、キースの視線の先を追い掛けると、こちらを睨み据えて立つバドの姿があった。

「見事だった。次は俺が相手だ」
 一言そう告げて、バドは曲刀を抜いた。
「おいおい、休憩もなしかよ……」
 そうぼやいて、キースはとん、とレイチェルを後ろにやった。

 カルハドール王の企みとやらは、キースもアロウェイから聞いていた。
 今大会の優勝者をカルハドール王国に招待する。そうして、その代わりにバドをセレン王国に置いていく。ただし、バドに勝つことが条件だという。
 全てはレイチェルを連れ帰るための口実だった。わざと負けたり出来ないレイチェルの性格も知った上で、レイチェルが望んで行くという形にするつもりだったのだろう。

「ってことはもしかして、俺があんたに負けたら、全てチャラになって万々歳?」
 そうまとめたキースをレイチェルがきつい視線で見上げる。
「ああ、そうだ。と言ってやりたいところだが、」
 答えて、バドは瞳を細めた。その台詞の続きは、キースも想像できた。だからこそ、退くわけにはいかないこともよく理解していた。
「キース、といったか。その名は閨の中で聞いた名だ」
 その台詞に、キースは表情を張り付かせた。閨の中で誰がその名を口にしたか、それが判らないほどキースも鈍感ではなかった。無垢だったレイチェルの身体を開かせ、身体を繋ぐ行為を教えたのはキースだ。もともと堅物であるレイチェルは、他の人間を知らなかった。そのレイチェルが、カルハドール王の寝室から出てきた。肌には陵辱の跡があった。何があったのかは聞かなくても判っていた。おそらくは、ロイフィールド王子を庇って、レイチェルはその身体を差し出したのだろう。

「レイ、可哀想だが、恋人のことは忘れろ。陛下はああいう方だ。一度味を占めたお前を諦めはしないだろう」
 そう告げるバドの言葉が、キースの考えを肯定した。
「お前、レイのこと判ってねぇのな」
 唇を噛み締めたままのレイチェルの代わりに、幾分低い声でキースがそう答えた。口元は笑顔を浮かべているものの、その瞳に笑みはなかった。
「レイが俺を忘れられるわけねぇだろ。だから俺が幸せにするって腹括ったところだ」
「キース!」
 剣を抜き、バドに向き合うキースの背中にレイチェルが声を掛ける。
「どこにもやらねぇ」
 背を向けたままそう言い放つキースに、レイチェルは息を1つ吐いた。

 剣がぶつかる音が響いた。
 曲刀を身体に隠すようにして攻撃してくるバドの剣は、これまで見たことのない剣術だった。そうして、キースと互角に渡り合う強さも持っていた。

 『幸せにする』
 『どこにもやらない』
 そう告げたキースの声が、レイチェルの胸にじん、とした何かを連れて来ていた。
 だが、それが簡単でないこともレイチェルにはよく判っていた。

「キース……」
 剣を手にしていた間は封印していた、様々な想いがレイチェルの中に湧き上がる。
 キースと離れたくない。カルハドール王の慰み者になどなりたくない。
「私は……、」
 言い掛けて、レイチェルは唇を噛み締めた。

 今はただ、目の前で戦うキースを見届ける。全身全霊を懸けて大切にしようとしてくれる想いを瞳に焼き付ける。そう決意して、レイチェルは真っ直ぐにキースの姿を見つめた。


「はぁッ!!」
 キースの剣が閃いた。
「決まった」
 そう呟いたレイチェルの前で、2人の動きが止まった。

 キースの勝利だった。



 大歓声の中、剣術大会はひとまず幕を下ろした。
 だが、ある意味これからが本番であった。

 正装に着替え、1つ息を吸い込んで、レイチェルは祝賀会を兼ねた夜会に出席していた。
 前方の玉座には、セレン国王であるミルフィールド王、その隣にカルハドール王が座っていた。そうして、ミルフィールドから少し離れて場所に、ミルフィールドの弟であるダンフィールド、ロイフィールド王子、アルフィールド王子が座し、騎士隊長であるハサウェイが立っていた。一方、カルハドール王の傍にはシーマが寄り添うように腰を下ろし、暗い瞳でバドが立っていた。

「見事であったぞ。キース=チェスター」
 玉座の前で頭を垂れるキースに、カルハドール王が満足げな笑みを浮かべる。その瞳の奥に新たな策略が揺らめいているのに気付き、シーマは呆れた顔を浮かべた。
「約束どおり、カルハドール王国に招待してやろう。折角の機会だ。ロイフィールド王子もいかがかな?」
 その言葉に、ロイフィールドは息を呑んだ。標的が変わったことを理解して、その場の空気が凍り付く。
 カルハドール王の誘いを無下にすることは出来ない。かといって、何をされるか判っていて、幼いロイフィールド王子を渡すわけにもいかなかった。

 重たい沈黙が、その場を支配した。

「恐れながら、」
 静まり返ったその空間を破ったのは、レイチェルの声だった。そうして、レイチェルは用意していた言葉を唇に乗せた。
「カルハドール王国で修行させていただく許可をいただきたいと存じます」
 レイチェルは背筋を伸ばして玉座を見上げ、きっぱりとそう言い切った。
 カルハドール王がにやり、と笑った。その隣でシーマが溜め息を落とした。
 ミルフィールド王は黙ったまま、静かにレイチェルを見つめ返した。その後方でレイチェルの父であるハサウェイがわなわなと震えていた。

「では、」
「待った!!」
 その時、カルハドール王の言葉を遮るようにして、片手を高く上げて進み出たのはキースだった。そのままレイチェルの肩を掴んで後方へやりながら、キースはカルハドール王を見上げた。
「勝者への褒美とおっしゃるなら、このキースが欲しいものを下さいませんか?」
 挑発的な視線を送りながら、キースはそう言い放った。
「それが筋というものでしょう?」
 あまりに不躾なその言いように、騎士隊長でもあるハサウェイは表情を失くした。一方、その前方でダンフィールド王弟は声を殺して笑った。
「確かにそのとおりだな」
 そう告げるダンフィールドの声に、カルハドール王は小さく舌打ちして、キースを見下ろした。
「よい。申してみよ」
 その言葉に、キースが口角を上げる。
「では、申し上げます。レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズを」
 一際大きな声で告げたその言葉に、周囲がざわめき立った。
「ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、俺たち好き合ってんです」
 あまりに突然になされたその告白に、レイチェルは意識が遠のくような錯覚を覚えた。そうして、反論する気力もなく、かろうじてキースの後ろ姿を見つめた。正直倒れなかっただけ誉めて欲しいくらいの気分だった。

「……ならば、2人でカルハドールに招待してやろう」
 少し考えて、カルハドール王はそう提案した。
「嫌です」
 これまた不躾にそう断り、キースはやはり挑発的な色を乗せたままの瞳で、カルハドール王を見上げた。
「つまらぬ」
 キースの視線を受け止め、あからさまに不機嫌になりながら、カルハドール王はミルフィールド王へと視線を巡らせた。その変化に気付いたシーマが、あーあ、と溜め息を声に出した。
「率直に申し上げよう、ミルフィールド王」
 そう前置きして、カルハドール王はミルフィールド王に幾つか申し出た。それは、提案というより脅迫といった方がよいのかも知れなかった。
 カルハドール王国を敵に回したくないなら、ロイフィールド王子をよこせ。それが無理なら、レイチェルをよこせ。
 誰の耳にもそう聞こえた。
 黙ったまま、ミルフィールド王は静かにその提案を聞いていた。ただ、広間に並べられたワインたちがぱしゃぱしゃと音を立てて跳ねた。握り締めたままのミルフィールド王の左手が微かに輝くのを見て、カルハドール王は密かに息を呑んだ。
 その時だった。
 ざあーっという激しい水音に、カルハドール王は顔を上げた。窓の外を見ると、激しい雨が大地を叩きつけていた。同時にワインたちが音を立てて宙を舞うのが見えた。
「……すまない、大丈夫だから」
 片手を挙げ、あやすようにそう告げるミルフィールド王の声に、ワインたちがグラスの中へと帰っていく。窓の外の雨も激しさを落ち着かせ、だが心配そうに優しく降り続けた。
「民あってこその国。民あってこその王。王というのは、国と民を守るもの。民を守れぬのなら、国も王も要らぬのですよ……」
 静かな声でそう告げ、ミルフィールド王はカルハドール王を見つめた。
「残念ですが、我が民1人たりとも傷つけることは許さぬ。それが王というものです」
 瞳を細めて見据えるミルフィールド王の視線を受け止め、カルハドール王は喉の奥で笑った。
「……その言葉、いつか後悔するぞ。こんな小国、いつでも潰せるとそう言ったら、そなたどうする?」
「ほう、潰すとおっしゃられるか」
 そう言って割って入ったのは、ダンフィールドだった。
 次の瞬間、大地が揺れた。食卓に並べられていた食事が音を立てて床に落ちた。
「ならば、お足元にご注意なされよ」
 そう付け足して、ダンフィールドはにやりと笑った。

 重苦しい沈黙の中、大地の揺れが治まった後も、あちこちで壊れた食器と水音が響いた。

「あーあ、もったいないの」
 シーマの高い声が、静寂を破った。
「つまんない国だね、セレン王国。綺麗な顔して、みんなお堅いんだもん」
 明らかに不釣合いなその声が、広間に響く。
「でも、嫌いじゃないな、そういうのも」
 そう言って、シーマはくすくす、と笑った。そうして、そのままカルハドール王に甘えるようにもたれかかった。
「ねぇ、陛下。シーマを愛して下さいな。シーマ、たーくさん、サービスしちゃうから」
 甘ったるい声を上げ、しなやかな指を首筋に這わせながら、シーマは唇を寄せた。カルハドール王がくすり、と笑う。そうして、シーマの腰を引き寄せて、カルハドール王は立ち上がった。
「まあ、よい」
 短くそう告げて、カルハドール王は、シーマとともに広間を後にした。


「綺麗だからこそ、壊し甲斐があるというもの。あの王弟、わしと同じ目をしておる。……いずれ、な」
 長い廊下を歩きながら、カルハドール王はそう呟いた。


「礼を言う」
 一礼するバドに、キースは片手をひらひらと振って答えた。
「礼なら、あのシーマとかいう奴に言えば? 俺は俺の大事なものを守りてぇだけだし」
 そう告げるキースの言葉に、バドはこくり、と頷いた。
「俺も大事なものを守りたい。そのために戦う」
「それでいいんじゃねぇ?」
 決意を声にしてその場を去るバドの背中にそう告げて、キースは口元に笑みを浮かべた。
「さて、」
 未だざわめく広間を振り返り、キースはレイチェルの姿を探した。
 レイチェルの体力から考えると、そろそろ限界だろう。倒れ込んでいてもおかしくはない。
「……レイチェル?」
 だが、何処にもレイチェルの姿はなかった。
 巡らせた視線の先に、アロウェイとアスランの姿が見えた。ハサウェイもミルフィールド王の傍から離れていない。
「何処に、行った……?」
 レイチェルの姿だけが見当たらなかった。
 キースの背中を、ぞくり、と不安が込み上げた。




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