Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 Crossing 

 第18話 


 ざわざわと歓談する人々の間を早足で擦り抜け、キースは密かに広間を後にした。その間も深緑色の両眼は忙しなく動き、レイチェルの姿を探していた。しかし、その姿は何処にも見当たらなかった。
「レイ……」
 広間の扉が閉まると、歓談の声が遠のいていく。小さく呟いたその声が広い廊下にやけに不安げに響いて、キースは小さく舌打ちをした。
 弱音を吐かないレイチェルの性格は、キースも知りすぎるほどに知っていた。たとえ倒れる寸前であっても、レイチェルは誰かに助けを求めることはしないだろう。広間にはレイチェルの父親も兄弟もいるにも関らず、だ。
「……というよりは、だから、か」
 1つ溜め息を落として、キースは隣にある控えの間へと足を向けた。
 正直なところ、ウェイクフィーズ家の重圧というものはキースには理解しがたいものであった。だが、厳しすぎるほどに自分を追い込むレイチェルの姿には、ウェイクフィーズ家の男子としてのあり方を感じさせられた。先刻も周囲の反対を押し切って、レイチェルは広間に姿を見せた。そうして何処にそんな余力があったのか、レイチェルは背筋をぴんと伸ばしていつもの姿勢を崩すことはなかった。

 不気味に跳ね上がる鼓動を抑え込んで、キースは控えの間の扉を押した。その扉は、小さな音を立てて開いた。
 壁越しに微かな歓談の声が聞こえた。だが、そこには誰もいなかった。

「何処に行った……?」
 心臓を別の生き物のように感じたのは生まれて初めてだった。やけに速くなる鼓動に追い立てられるような錯覚を覚え、キースは無理矢理肺に空気を送り込んだ。
 城仕えをするようになってから5年は経つ。更に付け加えれば、レイチェルはウェイクフィーズ家の人間である。セレン王城の中は十分に知り尽くしている。他にいくらでも身体を休める場所はあるはずだ。そう思いながらも、キースの拳の中は汗でじっとり濡れていた。何度息を吸っても、募る不安に身体を支配されていく。全身の感覚が告げていた。

 レイチェルに何かあった、と。

 後悔しても仕方がない。判っているのに、レイチェルから目を離してしまった自分を呪いたい気分だった。
「……くそっ」
 誰もいない部屋から視線を外し、踵を返して初めてもう1人の存在に気付いてキースは息を呑んだ。扉を背に1人の少年がキースを見上げていた。
「ロイフィールド殿下!?」
 遠くから拝謁したことしかなかったが、見間違えようのない人物がそこにいた。
 透き通るような白い肌に掛かる蒼みがかった黒髪は、風もないのにさわさわと揺れているように見えた。形よく目尻がすうっと流れた青灰色の双眸は、セレン王国の美しい冬の空を思わせた。その瞳の上で弧を描いた美眉が、少年の聡明さを表しているようだった。華奢な少年の身体に不似合いな、それでいて不思議な均整を持つその姿は、人であることを疑いたくなるほどだ。美しいとは聞いていたが、間近で見るその美貌に戦慄すら覚え、キースはしばらくの間言葉を失った。
 そんなキースをじっと見つめた後、ロイフィールドはすたすたと部屋の中央を歩いて窓に向かった。そうして、小さなその手で無造作に窓を開けた。
「レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズを見た?」
 まるで窓の外に誰かがいるかのように、ロイフィールドはそう問い掛けた。その声に答えるかのように、風がさわさわと囁いた。

 ロイフィールド王子は精霊に愛されている――。
 その噂はキースも耳にしたことがあった。だが、目の当たりにしたのは初めてだった。

 守らなければならない存在だ。
 何故だろう、不意にそんな思いがキースの中に湧き上がった。

 ――レイも、そう感じたのか……?

 だから、自分の身を挺してまで守ろうとしたのだろうか。

「……そう、ありがとう」
 その声に現実に引き戻され、キースはロイフィールドの背中に視線を合わせた。ほぼ同時に、風の精霊との会話を終えたロイフィールドが振り返った。
「レイチェルは、ジェイとかいう人に呼ばれて出掛けたって」
「……ジェイ」
 その名前は、キースにとって十分に心当たりがある人物の名前だった。行きつけの酒場の息子で、遊んでいた頃には何度も身体を合わせた仲だ。

『イク時いつも呼ぶ『レイ』が、ウェイクフィーズ家の次男坊のことだったとはね』
 そう告げたジェイの呆れ顔が、キースの脳裏に浮かんだ。3日前のことだ。

 あの時、何を話した……?
 酒場に姿を見せたレイを、ジェイはどんな顔で見ていた?

 『遊び人』の2つ名が示す、自分自身の素行の悪さは、キースも十分に認識していた。いつか何処かでしっぺ返しを喰らうことも覚悟していた。だが、それがレイチェルに向かうことは考えていなかった。

 レイを呼び出して、何をするつもりだ……?

 漠然とした不安が、確信へと変わった瞬間、キースは全身から汗が噴き出るのを感じた。そうして僅かに残った理性でロイフィールドに一礼すると、キースはその部屋から飛び出した。



「……ここは?」
 促されるままにレイチェルが辿り着いたその場所は、下町の中でも特に寂びれた一角だった。もとは宿屋か何かだったのだろうか、廃屋になったその建物はそれでもテーブルや椅子、食料や酒などが雑然と置かれており、溜まり場として活躍している様子が窺えた。
「素直について来た自分の愚かさを恨みな」
 誰かがそう告げるのと同時に、レイチェルの後方で扉が閉まる音が聞こえた。

 ――愚か、か。

 そう言われると反論のしようがなかった。内心苦笑しながら、レイチェルは近付いてくる男を見据えた。使いだと名乗った男の風体や言葉遣い、表情から、この事態が予測できなかったわけではなかった。橋を1つ越え、いわゆる下町という地区に足を踏み入れる前に引き戻す機会はいくらでもあった。 それなのに、何故ついて来てしまったのか。

「……ジェイは?」
 薄暗いその場所には6人の男たちがいた。みな一様に値踏みするような視線をレイチェルにぶつけていた。だが、『ジェイ』の姿はなかった。そのことにレイチェルは1つ息を落とした。落胆とも安堵とも言えるその吐息に、レイチェルはまた心の中で苦笑した。

 ――ジェイに会って、どうしたかったのだろう?

 自問しながら、レイチェルは先日見た赤毛の青年の姿を思い出していた。
 その腕を絡めるようにして、キースの隣に座っていた青年だ。

 だが、ずっと以前から、レイチェルはジェイのことを知っていた。

 遊び人キースのお気に入りが、下町の酒場にいるらしい。
 いつだったか、そんな噂を耳にした。
 だから何なのか。そう思いながらも、その酒場の名前はレイチェルの耳から離れなかった。

 馬鹿なことをした。
 そう思ったのは、酒場に向かう途中のことだった。
 キースを見た。赤毛の青年の腰を抱いて、笑いながら、キースは宿の中に消えた。隠れるようにその姿を見送り、少なからず動揺している自分に驚いた。

 本当に、馬鹿なことをした。
 後悔したのは、翌日の夜、初めてキースに抱かれた後だった。


「レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズ、か」
 そう声にして、男は片方の口元を上げた。ごくり、と生唾を呑み込む音がその場に響いた。
 ウェイクフィーズといえば、誰もが一歩下がる家名である。だが今この場においては、獲物の価値を高める道具の1つに過ぎないようであった。男たちの1人がぞくりと身震いするのがレイチェルの瞳に映った。
「何をするつもりだ?」
 伸ばされた手を払い除け、レイチェルは鋭い視線で男を睨んだ。
「……何って、楽しませてもらいてぇ、と思ってな」
 レイチェルの視線に手を怯ませたのも束の間、内から湧き上がる欲望に突き動かされるように男たちはレイチェルとの距離を縮めた。
「キースの奴には抱かせているんだろう?」
「そのきれーな身体、俺たちにも拝ませてくんねぇかなぁ」
 欲情の色を隠さない視線が、レイチェルを絡め取った。その視線を断ち切るように小さく、ふ、と息を吐くと、レイチェルは腰に佩いた剣に手を掛けた。その手の動きに気付いた男が声を上げる。だが緊迫しかけた空気は別の男の笑い声で打ち消された。
「あんたの腕は知っているさ。でも本調子じゃねぇだろ?」
 その通りだった。無理を重ねたレイチェルの身体は、正直立っているのがやっとの状態であった。
「ほら、ここまで来ただけでもう息が上がってるじゃねぇか」
 そう証拠を突きつけられ、レイチェルは眉を顰めた。
 ここまでの道のりは、駆け足とも言える早足だった。単に急いでいるからかとも思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。僅かに残っていた体力さえも奪われたことに気付き、レイチェルは半ば感心しながら、男たちを見つめた。
「……こんなことして、ただで済むと思っているのか?」
 間合いを取りながら、レイチェルは男たちに問い掛けた。だが、それが無駄であることはレイチェルにも判っていた。どうやら相手も馬鹿ではないらしい。行き当たりばったりの行動ではなさそうだった。おそらくは3日前、キースを探して酒場に顔を出したあの日から計画されたものだろう。剣術大会終了後、一番弱っているのを見計らって誘い出し、楽しむ。その計画にまんまと乗ってしまったわけである。ジェイの名前を出したことを考えると、ある程度の事情も知っているのだ。レイチェルの性格を知っていても不思議ではなかった。
「ウェイクフィーズのご令息を犯してただで済むとは思ってないさ。だが、あんたは口にしないだろう?
 男の誘いにまんまと乗って、無理矢理押さえつけられて犯されました、なんてさ」
 予想通りの台詞を返され、男たちを見据えたまま、レイチェルは苦笑した。
 まったくもってそのとおりだ。口が裂けても言えない。
 だが、
「このレイチェルが大人しくやられると思うのか?」 
 ぞっとするような声色でそう告げると、レイチェルは剣を握る手に力を込めた。



「ジェイ! 出てきやがれ!!」
 壊す勢いで扉を叩き開けると、キースは中も確認せずそう叫んだ。
「なあに? どしたの、キース」
 その様子に驚きを隠さない表情で、準備していた酒杯を手に、ジェイは顔を上げた。店内はまだ客はまばらだ。いつもより静かな店内に響いたその騒音に、中にいた人間は一様にキースとジェイを見つめた。
「レイはどこだ!?」
 突き刺さる視線をものともせず、荒い足音でジェイに詰め寄りと、キースはそう怒鳴った。そのまま、カウンター越しにジェイの胸倉を掴みあげると、不機嫌そうな顔を浮かべたジェイが溜め息を落とした。
「……何のこと?」
「ふざけるなよ。レイをどうするつもりだ、てめぇ」
「らしくない表情だね」
 一言だけそう悪態を吐いて、ジェイはキースを見つめた。実際、ジェイにとって初めて見る表情だった。
 遊び人キースといえば、いつも楽しげに笑っている、食えない男だ。怒っている表情どころか、困っている表情さえ見たことがない。気付けばそこらで誰かと楽しそうに会話している。こんな下町の酒場がよく似合う、それでいて似合わない、不思議な存在感を持つキースに惹かれる人間は多い。だから3日前、久しぶりに現れた時の消え入りそうなキースの表情に、ジェイは少なからず驚いた。そうしてレイチェルが生死を彷徨っていたのだという噂を後で聞き、妙に納得した。
 そのキースが怒りも顕にした表情で、ジェイを睨み付けていた。
「……ふうん、そうだね。俺だったらキースを取られた腹いせに、あいつをみんなで輪姦してやる、かな?」
 笑顔でそう答え終わると、ジェイは苦しそうな表情を見せた。キースの腕が絞め殺さんばかりにジェイの胸倉を掴み上げていた。瞳を細め、爪先立ちになりながら、ジェイはキースの表情をじっと見つめた。
「……やだな。そんなことするわけないじゃないか」
 苦しい息の下、呆れた声でそうぼやくジェイの姿が、キースの深緑色の瞳に映った。視線が絡まる。少しして、無理矢理に息を吐くと、キースは震わせていた腕の力を抜いた。
「結局、俺のこと何にも判ってないね。……ま、キースは最初からレイしか見てなかったもの」
 やっと開放されそうぼやくジェイをキースの双眸が見据える。溜め息とともにその視線を受け取った後、ジェイはカウンターから出て来た。
「来なよ。たぶん、カールたちだろ。この前、レイを見てから抱きたい、抱きたいってうるさかったから」
 すたすたと扉に向かうジェイの背中を見ながら、
「わりぃ」
 小さくそう声にして、キースはその後を追った。



 カールたちの溜まり場はあまり離れていない場所にあった。
「レイ!」
 叫ぶキースの隣で、ジェイは退屈そうに1つ伸びをした。
「心配することないと思うけどねぇ」
 緊迫感のない声に幾らかの苛立ちを覚えながら、キースは乱暴に扉を開いた。

 そこにレイチェルの姿はなかった。
 ただ、完全に倒された6人の男たちが、キースを出迎えた。

「あいつ、強えぇよ……」
 意識のある1人がジェイを見上げて小さくそうぼやいた。
「そりゃそうだろ。レイチェル=ギィ=ウェイクフィーズだもの」
 ジェイの答えに男がうんうんと頷く。
「何? 弱ってるから勝てるとでも思った? 今日の試合見てなかったの?」
 呆れ顔でそう追い討ちをかけると、ジェイはちらりとキースに視線を送った。
「でも良かったね、カール。レイにのしてもらって。じゃなきゃ今頃命ないよ?」
 そうぼやくジェイの視線を追い掛けて、そこにあるキースの表情に気付いて、カールの顔はあからさまな驚愕へと変化した。
「……遊びじゃなかったのかよ?」
 キースが恋人を作った。相手はウェイクフィーズ家の次男坊らしい。
 そんな噂がこの界隈に流れた時、誰もがキースの新しい遊びだと疑わなかった。例に漏れず、カールもその1人であった。レイチェルを乱暴したことが万が一キースの耳に入ったら、気を悪くするだろう、そのくらいは覚悟していた。だが、どう見ても笑って許してくれそうな雰囲気ではない。
「――レイは?」
 聞いたこともない低い声だ。本能で恐怖を感じて、カールは姿勢を正した。
「い、いません! 逃げられました! 指一本触れていません!」
 情けない、だが真実の報告をし、カールは許しを請うべく床に頭をつけた。というより、恐ろしくて顔を上げられなかったというのが正しいのかも知れない。だが、一瞬にして凍り付いた空気は、なかなか溶けそうにはなかった。
「優勝おめでとう、キース」
 突然割って入った明るい声が、その場を軽くした。ジェイの声である。
「優勝?」
 素っ頓狂な声を返し、カールはキースを見上げた。
「そ、剣術大会。キースが優勝。で、レイが準優勝」
「……マジか」
「というわけでこの場は引き分け。さっき俺のこと判ってないなんて言ったけど、俺も本当のキース=チェスターのことは判ってなかった。……これからは、本気で生きなよね」
 そう告げるジェイの笑顔に、キースはようやく表情を緩めた。

「ご褒美出たよね? 今度奢ってよ」
 去り際、キースの背中にジェイがそう声を掛けた。
「……奢れねぇな」
 振り返り、にっと笑うキースを見て、ジェイは呆れ顔になった。
「もしかして、『レイチェル』をおねだりしたとか?」
 冗談で尋ねたその言葉に嬉しそうな笑顔で答えられ、
「あっきれたー」
 ジェイの大きなぼやき声が、しばらくの間その場に木霊した。




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