Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 Crossing 

 第7話 


 どうやって馬を駆ったのかすら、よく覚えてはいなかった。
 一際大きなその門をくぐり、庭の一角にある馬小屋へと辿り着くと、レイチェルは殆ど転がり落ちるようにして、馬から身を翻した。薄紫色の瞳で周囲を見渡し、兄アロウェイの愛馬がいないことを確認して、安堵の息を漏らす。

「……疲れた」
 微かな声でそう呟き、レイチェルはその場に崩れ落ちた。

 いろいろなことが、全て遠くに感じられた。




 額にひんやりとした感覚を覚え、レイチェルは瞳を開いた。ぼやけた視界に人影が映る。
「――キース……?」
 その名を口にした瞬間、急速に現実に引き戻されていく。
 がばりと身を起こしたところで、レイチェルは視界が歪むのを感じた。軽い眩暈の中、先程視界に映った人物が振り返るのが見える。
「兄さん?」
 そう声にして、その人物が慌てて寝台へと駆け寄ってくる。
「……アスランか」
 レイチェルの身体を支えようとする弟の腕を制しながら、レイチェルは周囲を見渡した。今居る場所が、自分の部屋の寝台の上であることを確認して、一つ息を吐く。
「横になっていた方がいいよ、レイ兄さん」
 馬小屋で倒れてたんだ、そう付け足して、アスランは心配そうにレイチェルの顔を覗き込んだ。
「……お前が、此処へ?」
「大丈夫。母さんたちには気付かれていないよ」
 レイチェルの顔を覗き込んだまま、アスランが笑みを浮かべてそう答える。

 弟アスランは昔からそうであったように、他人の心を理解することに長けている。相手の心を的確に理解し、思いやりを持って接する、そういう優しさを持っていた。2人の王子たちのお傍付きになった今でも、その性質は何ら変わることがない。その長所は、王城においても幼い王子たちの心を安らがせていることだろうと、そう思う。

 ――もし、アスランのように相手を理解できたら、何か違っただろうか

 ふと、そんな意味のないことが、レイチェルの頭を掠める。

 ――少なくとも、自分のように、キースを傷つけることはなかったかも知れない

 最後に見たキースの顔が脳裏に浮かぶ。
 レイチェルが投げ掛けた、傷つけるための台詞を、キースは黙ったまま受け止めた。
 怖くて見ることが出来なかったキースの顔は、その後どう変化したのだろう。

 長い一日を振り返る。
 キースに誘われるままに、晴れた青空の下、馬を駆ったのは、つい今朝のことであったのに――。
 激しい雨に襲われた昼下がり、大樹の下で雨を避け、その場所で、キースに抱かれた。
 両脚を拡げ、嬌声を上げるその姿を、アロウェイに見られた。
 そして――、

「兄さん?」
「……疲れた」
 短くそう言って、レイチェルは寝布の中に潜り込んだ。発熱しているのだろうか、悪寒を感じる。
 ただ、抑えようとして治まらない身体の震えは、それだけが原因ではないと判っていたけれども。

「熱があるね。少し眠ってなよ。母さんたちには適当に言っておくから」
 そう言ってアスランが立ち上がる。
 その背中に、レイチェルは声を掛けた。
「――何も、訊かないのか?」
「兄さんが訊いて欲しいのなら、訊くよ?」
 そう答えて、アスランが振り返る。
「いや、訊かないでほしい」
「……そう言うと思った」
 小さな溜め息とともに、アスランは微笑を浮かべた。
 小さく震える寝布を見つめながら、少し考えて言葉を続ける。

「一つだけ、言っておくね」
 そう前置きして、
「何かいろんな噂が飛び交ってるけどさ、俺、レイ兄さんのこと大事だから、幸せになってほしい。それだけは願っているよ」
 そう告げられた言葉が、レイチェルの胸に響く。
 ひび割れ掛けていたその場所に染み入り、癒される、そんな感覚にレイチェルはずっと抑えていた涙が溢れてくるのを感じた。アスランに気取られないように、寝布に包まったまま声を抑える。

「……アロウェイ兄さんもそう願っていると思うよ。兄さん不器用だから、そんなこと言わないだろうけどね。俺がそう思うんだから、間違いないよ」
 寝台を見つめたまま笑顔でアスランがそう続ける。

「それから、……多分キースもね」
 最後にそう言葉にして、アスランはレイチェルの部屋から出て行った。

 しんと静まり返った部屋で、レイチェルは寝布に包まったまま、零れ落ちる涙を抑えることは出来なかった。

 もしかすると、自分たちはほんの少しだけ、釦を掛け間違ってしまっただけなのかも知れない。
 そして、正しく掛け直すことも出来るのかも知れない。

 でも、全てが遅過ぎる、そんな気がした――。




 翌朝は、見事な青空だった。
 窓から差し込む朝陽の光を、眩しそうに細めた薄紫色の瞳に映して、レイチェルは気だるい身体を起こした。身なりを整え、少し長い灰色がかった金髪を後ろで一束ねにまとめて、一つ息を吐く。
 階下に下りると既に家族全員が揃っていた。レイチェルの溜め息が深くなる。ただその場所にアスランがいることが救いだった。
「おはよう、レイ兄さん」
 案の定、真っ先にアスランが声を掛けてくれる。
「心配掛けたな」
 務めて明るい声でそう告げ、レイチェルはアスランの頭をぽんと叩いた。そうして、遠慮がちに視線を送る母親に笑顔を向ける。レイチェルのその様子に安堵したように、母親もまたレイチェルに良く似たやわらかい笑顔を返してきた。

 そして、高鳴る鼓動を抑え込み、小さく一つ息を吸って、レイチェルはアロウェイに視線を送った。
 もっとも押し黙ったままのアロウェイに、声を掛ける勇気はなかったが。

「レイチェル」
 不意に父に名を呼ばれ、レイチェルは鼓動がどくんと音を立てるのを感じた。かろうじて視線を上げ、返事をする。
「レイチェル、今日から一週間、休暇をやる」
 唐突に告げられたその台詞に、レイチェルは瞳を丸くした。

 昨夜高熱を出したことを知られたのだろうか、いやこの父がその程度で勤務を休ませる筈がない。それに先程の母の態度は、熱が出たことを知らない様子だった。もし熱を出したことを知ったら、もっと大騒ぎになっている筈である。
 キースとのことがばれて、『謹慎』、ということだろうか、いや兄が父に話すとは思えないし、それならもっと大騒ぎになってもいい筈である。

 じゃあ、何故――?

「ですが、明日は緑萌の儀で、確かカルハドールから……、」
 言い掛けて、父の真意に気付き、レイチェルは言葉を失くした。
「…………つまり、カルハドール国王の前には出せない、というわけですか」
 その問いに、父からの返事はなかった。

 カルハドール国王は無類の色好み、という話は、レイチェルにも聞いたことはあった。
 王宮の最奥にある後宮には男女問わず、数多くの人間を囲っているとのことである。また、大国の王という権力を行使して、非道な振る舞いを見せることもあるらしい。真実かどうかは知らないが、砂漠の民の巫女を略奪し、あまつさえその一族を皆殺しにしたという噂もあった。
 そのカルハドール国王自ら、わざわざ辺境のセレン王国までやって来るのである。

 その理由は、簡単に想像できた。

「来訪の目的は、ロイフィールド殿下か」
 ぽつりと呟いたレイチェルの声に、アスランの表情が険しくなる。

 ロイフィールド=ディア=ラ=セレン。セレン王国現国王の一子である。絶世の美女と謳われた亡き王妃の忘れ形見で、輝くばかりのその美しさは歳を追うごとに増し、まだ11歳という少年でありながら、亡き王妃を遥かに上回る美しさではないかと囁かれている。
 レイチェルも何度か会ったことがあるが、風に愛されて蒼く舞うさらさらとした美しい黒髪と、陶磁器のような滑らかで白い肌に調和した形の良い青灰色の瞳が、強く印象に残っている。
 容姿ばかりとやかく言われることがどんなに不本意かはレイチェル自身良く判ってはいたが、あれ程美しければ人の噂に上っても仕方がないのかも知れない、そう思ってしまう。

 伝説が生きる国、セレン王国では、かつて英雄ディーンが魔王を封印した『精霊石』を守るため、ディーンの血を継ぐ王家の人間は、国を離れることはない。
 したがって、ロイフィールド王子を見ようと思うなら、閉ざされた国セレン王国に出向かなくてはならない、というわけである。
 そして、カルハドール王国という大国の要請を拒むことは、小国であるセレン王国には無理な話であった。

「万が一……、」
 言い掛けて、レイチェルは口を閉ざした。
 それは誰もが考えていることであり、それでいて何とかして避けなければならないことでもあった。
「ロイ様を連れて行かせるようなことにはしないよ。このアスランの一命に掛けても」
 険しい表情のまま、アスランがそう言葉にする。
「殿下は精霊に愛されている。精霊石を手にする方を奪われるわけにはいくまい」
 父の声がそう付け足した。

 こんな大切な時に、何も出来ない自分が悔しかった――。

 ――それどころか、この顔は面倒の種になりうる、そう思われているらしい

「お前は王城へ顔を出すな。いいな」
 父の声がそう命令を下す。騎士隊に所属する身である以上、騎士隊長である父の命令を拒むことは出来ない。
「…………はい」
 そう答え、レイチェルは唇を噛み締めた。




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