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一つ大きく深呼吸をして、レイチェルは立ち上がった。
手早い動作で乱れた衣服を整える。そうして、宝物を扱う動作でロイフィールド王子を抱き上げ、愛馬に跨った。王子をこのままにしておくわけにはいかなかった。一刻も早く王城へ連れ帰らなくてはならない。ふと登城を禁じられた身であることを思い出したが、最早それもどうでもよいことであった。
父の心配を他所に、この身体は既にカルハドール王に抱かれてしまったのだから――。
白を基調とした、小さいながらも美しい王城の姿が見える。
「アスラン……?」
そのセレン城の城門から飛び出してきた騎上の人物を瞳に納めて、レイチェルはその名を口にした。
「レイ兄さん!」
アスランの愛馬が駆け寄ってくる。
「ロイ様っ!!」
レイチェルの腕の中の人物を確認し、アスランは安堵の息を落とした。レイチェルの手から受け取り、幼いその身体を抱き締める。
「気を失ってらっしゃるが、無事だ。安心しろ」
その場に座り込むアスランの頭上に、レイチェルはそう声を掛けた。アスランがもう一度安堵の息を落とすのが、薄紫色の瞳に映る。
「古代の森の入口で、カルハドール王とご一緒だった」
淡々とした口調で、レイチェルはそう説明を加えた。アスランが反射的に顔を上げる。
「今後は王子には手を出さないとのことだ。口約束だから、どこまで信用していいのかは判らないが。いずれにせよ、気を引き締めろ、アスラン」
「……兄さん、どうやって……?」
見上げてくるアスランの表情が強張るのが、レイチェルにも見て取れた。もとより聡いこの弟を欺くことは困難に思えた。
「兄さん、まさか……」
「幸い、この身体はお気に召したようだ」
事も無げにそう告げるレイチェルに、アスランは目の前がくらりと歪むのを感じた。
つまり、兄レイチェルは王子の身代わりとしてカルハドール王に抱かれたと、そうして口約束とやらが本当なら今後も抱かれるつもりだと、顔色一つ変えずにそう告げたのだ。
「レイ兄さん……」
「元より綺麗な身体ではないし、ましてや私は女性ではない。別に大したことじゃない」
「そうじゃないよ、レイ兄さん。それは違う」
声を荒げるアスランの口を、レイチェルは指で制した。そのまま端正な美貌でアスランを圧倒する。
「私がいいと言っているんだ。これ以上口を挟むな」
「……キースには」
アスランが口にしたその名前に、一瞬だけレイチェルは表情を曇らせた。
そして、
「もう別れた。あいつは関係ない」
微かに震える声でそう告げて、レイチェルはアスランに背を向けた。
「……アロウェイ兄さん、少し話があるんだけど」
何度も逡巡して、アスランは遂にその扉を叩いた。夜番をする騎士のための部屋である。今日、アロウェイがその部屋に泊まることは以前から聞いていた。
「アスランか、入れ」
その声に、アスランは扉を開いた。
「何か用か?」
父に良く似た、それでいて何処か優しげな眼差しで、アロウェイはアスランを見つめた。
アスランにはよく判っていた。アロウェイの眼差しは優しい。だが、ただ一人に対してだけは、違っていた。
レイチェルにだけ、アロウェイは厳しい視線を投げ掛ける。
それでいて、遠くから見つめるその瞳は、他の誰に向けるよりも優しい眼差しだった。
そして、その視線が持つ意味にも、アスランは気付いていた。
「兄さん、落ち着いて聞いて」
そう前置きをして、アスランは話を切り出した。
「今日、ロイ様が、カルハドール王に連れ出されたんだ」
その言葉にアロウェイががたんっと立ち上がる。
「お前は何をしていたんだ!」
「うん、ごめん。アルフ様のことで……。まあ、今から思えば、カルハドール王の策略に嵌ってしまったんだけど」
「それで?」
苛立ちを隠せない声が問い掛ける。
「ロイ様は無事だよ。……偶然出くわしたレイ兄さんが、ロイ様を助けてくれたんだ」
その言葉に、今度は頭まで上った血が一気に足元まで引いていくのを感じ、アロウェイはテーブルに手を付いた。
「レイが……? まさか」
「そのまさかだよ、兄さん」
「馬鹿な……、何故っ」
硬く握り締めた拳が、横にあったテーブルを殴りつける。鈍い音を立てて、テーブルは床に倒れた。
「おそらく今晩も呼び出されているんじゃないかな? レイ兄さんは言わなかったけど」
「……判った。お前は王子たちの傍を離れるな。レイの元には、私が行く」
務めて冷静な声でそう告げ、アロウェイは扉の方へと歩を進めた。その背中にアスランが声を掛ける。
「アロウェイ兄さん、」
「何だ?」
「うん、兄さんは、レイ兄さんのことを愛しているよね?」
突然切り出された話題に、アロウェイは瞳を丸くした。
「……ああ、大事な弟だからな」
笑みを浮かべてそう切り返す。
「そうじゃなくて、一人の人間として愛している、だろう?」
アスランの台詞に、アロウェイは動きを止めた。アスランへと視線を向ける。冗談で言っている表情ではない。
「……何故、そう思う?」
「見てれば判るよ。他の人を見る眼と違うもの」
「……そうか」
短くそう呟き、アロウェイが一つ息を吐くのと、その目の前の扉が開かれるのは、ほぼ同時だった。
「へぇ……。知らなかったぜ」
「……キース」
扉の向こうに立つその人物の名を呼び、アロウェイは凍りついた。
「あんた、芝居上手なんだな。まんまと騙されたぜ」
細められた深緑色の瞳が、アロウェイを射抜くように睨み付けた。
「俺も、レイも、あんたの掌で踊らされていたってわけか」
口元ににやりと笑みを浮かべて、キースが自嘲気味な笑みを浮かべる。
「で、何、レイの奴、今は好色親父に抱かれてるって?」
お手上げとでも言いたげに両手を上に挙げ、キースは踵を返した。そのキースの肩をアロウェイが掴む。そのまま自分の方を向かせて、アロウェイはキースの頬を殴った。
「私のことは何とでも言え。だがレイを傷つけることは許さん」
「傷つけてんのはてめぇだって言ってやっただろうが!」
切れた口端から流れる血を片手で拭い、キースはアロウェイの頬を殴り返した。
「終わらせてやるよ、せいぜいレイを大事にしてやんな」
そう言って、アロウェイを一瞥し、キースはその場を後にした。
その姿を見送って、アロウェイはゆっくりと立ち上がった。背を向けたまま、アスランに問い掛ける。
「アスラン、聞きたいことがある。お前、」
「知っていたよ、兄さん。今日の夜番が誰か。だからキースがここに来ることもね」
寝台の端に腰を下ろしたまま、アスランはそう答えた。
「あの男は、レイ兄さんを傷つける。レイ兄さんを幸せにしてくれるなら、とそう思いたかったけれど、だからこうして罠を張ってみたけど……、これ以上見ていられないよ」
両膝に肘をつき、手を組んだ姿勢で、アスランは床の一点を見つめていた。意を決したように顔を上げる。
「兄さんはレイ兄さんを愛しているんだろう? レイ兄さんも兄さんを愛している、なら……っ」
「違うよ、アスラン」
アスランの元に引き返し、アロウェイはアスランの頭をぽんと叩いた。
「レイが見ていたのは、私じゃない。私の中に、キースを見てきたんだ」
そう言って、アロウェイは少しだけ哀しげに笑った。
「肝心の当人たちが、気付いちゃいないが……」
付け足して、ふうっと息を吐く。
「……ま、出来ることをするさ」
最後にもう一度笑みを浮かべて、アロウェイはその部屋を後にし、カルハドール王が寝む客室へと足を向けた。