Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 小説 

 Spirit Stones 

 第1章 Water Stone−水の精霊石− 
第1話 ETOS−水の都エトゥス−


 ――水の都、エトゥス。

 山に囲まれた、小さな街である。豊富な地下水脈に恵まれ、街のあちらこちらから泉が溢れ出していることから、別名、水の都とも呼ばれていた。
 そう、ほんの少し前までは。

 この水の都から、突然水が失われて、1ヶ月が過ぎようとしていた。

 そして、物語はここから始まる。


 エトゥスから少し離れた森の中、涸れかけた泉を見下ろすように、その青年――ロイは立っていた。僅かに残った澄んだ水に、ほぼ正円に近い蒼い月が揺らぐ。月光を受けるロイの肌は、陶磁器のように白く、恐ろしいほど綺麗に整った顔つきはまるで泉の傍に建てられた彫刻のような印象を与えた。光の加減か何処か蒼みがかって見える黒髪が風を受けてわずかに揺らがなければ、その青年が生きていることを疑ってしまうほどに。
「……やっと、見つけた」
 静寂を破ったのは、ロイの澄んだ声であった。
 泉を見つめていた青灰色の双眸がほんの少し柔らかくなり、薄い唇がわずかに緩む。そして、まるで泉からの囁き声が聞こえるかのように何度か小さく頷いた後、ロイは静かに言葉を紡いだ。
「ありがとう。判った。必ず何とかしよう。……盟友の誓いにかけて」
 ロイの声に、嬉しそうに水面が震える。その水面に綺麗な笑みを残すと、ロイは外套を翻して森を後にした。


 エトゥスの北端は、あまり治安の良くない地区である。そこに1軒の宿屋があった。
 森を抜け、エトゥスまで戻ったロイは、その『泉に浮かぶ小枝』亭の扉を開けた。そして、店内に一歩踏み込んだ瞬間、少しだけ後悔していた。
 本来、エトゥスにおけるロイの常宿は街の南端にある。エトゥスという街はそんなに大きな街ではなく、少し時間さえ掛ければ常宿である『雪解け水のせせらぎ』亭まで帰り着くことは可能であった。また、エトゥス北端の治安の悪さは、ロイもよく承知していた。だが、夜も更け、精霊たちの声に耳を澄まし続けていたロイの体力は予想以上に低下していた。何よりロイは、我が身の危険に関しては呆れるほど気に掛けないところがあった。その結果、見掛けたこの宿の扉をロイは迷うことなく開いたのであった。
 店内には、どう贔屓目に見ても決して品が良いとは言えない男たちが5、6人、カウンターと奥のテーブルを占拠していた。店内に足を踏み入れたロイに、品定めをするような視線が投げられる。
(……盗賊くずれか)
 瞬時にそう判断し、踵を返そうとしたロイの背後で、一番近くにいた小柄な男が素早く扉を閉める。完全に退路を断たれた格好で小さく1つ息を吐き、面倒くさそうに視線を上げたロイの瞳ににやにや笑う店の主人の姿が映った。
「折角来たんだから、飲んでけよ。兄ちゃん」
 顎をしゃくり、主人がロイにカウンター席を促す。ほぼ同時に奥を占拠していた男たちが立ち上がり、ロイを取り囲むように近づいた。
「頭巾くらいとれよ。仲良くしようぜ」
 男の1人が馴れ馴れしくロイの外套に手を掛け、目深に被っていたロイの頭巾を叩き落とした。男が見下ろす中、黒髪がわずかに揺れ、ロイの類稀な美貌が姿を現す。その瞬間、男は魅入られたかのように動きを止め、ごくりと息を呑んだ。
「……驚いた。こりゃあ上玉だ。エルフ、のわけはねぇよな」
 呆然としたままの男を押し退け、別の男がロイに顔を近づけた。一際体格の良いその男はどうやら彼らの首領格らしい。他の男たちが見守る中、無作法な手が伸ばされ、ロイの顎を掴み上げると、下卑いた笑い声が響いた。
 次の展開はロイにも容易に想像できた。今まで何度も聞かされてきた台詞である。
「大人しく抱かせな。そうすりゃ痛い目しなくて済むぜ?」
「断る」
 予想通りの展開にそう即答すると、ロイは青灰色の瞳を細め、くすっと笑みを零した。ロイのその態度に、周囲の男たちがざわめきの声を上げる。
「……てめぇ、自分の立場を理解出来てんのか?」
 得物を構えようとする手下たちを制しながら、首領格の男が鼻で笑う。それも当然であった。どう見ても多勢に無勢、体格の良い6人の男たちに囲まれ、ロイに逃げ出す隙は見つけられそうになかった。ロイも決して小柄な方ではないが、どちらかといえばすらっとした細身の長身であり、戦士のような体格ではない。一応丸腰ではないものの、腰に下げているのは細身のレイピア1本だけである。
 だが、
「理解しているつもりだが」
 自分が劣勢だとは微塵も感じていない涼やかな声で、ロイはそう答えた。その様子が男たちの癇に障ったのだろう。張り詰めた空気がその場を支配した。
 まさにその時であった。
 扉の方から大きな物音が響いた。
「…………何やってんだ、ロイ」
 驚く一同の視線の先、長身でがっしりした筋肉質の青年が呆れ顔でそうぼやく。漆黒の瞳が油断なく店内を見回し、大きな溜め息とともにロイ見つめた。腰にはずっしりとした重量感を持つ大剣を帯び、片手は既に見張りの男を壁に抑えつけている。
「見て判らないのか。説明が必要か? ジーク」
 緊張した空気を割ったのは、ロイのやはり涼やかな声だった。その声にもう一度大きな溜め息を吐いて、ジークは押さえつけていた小柄な男を降ろした。そのままつかつかとロイの傍へと歩いていく。
「すまねぇな、兄さんたち。俺の連れは顔だけはいいんだが、口も性格も最悪でな」
 周囲の男たちにそう詫びると、ジークは乱暴にロイの腕を掴んで引き寄せた。
「今日のところは、見逃してやってくれ」
 不服そうなロイを睨み、その腕を引っ張って扉に向かう。その直後、一瞬遅れて我に返った男たちが、剣を抜いた。
「てめぇら、このまま帰すと思っ……」
 怒鳴り声とともに斬りかかろうとした男が動きを止める。その喉元には振り返ったジークのダガーが突きつけられていた。ロイのレイピアもまた、寸分違わずその後ろの男の心臓に向けられていた。
「悪いが、次は手加減はできないぜ。帰らせてもらってもいいか?」
 そう告げるジークの低い声に、逆らう者はいなかった。


「……お前は、何を考えてるっ!」
 街の南端に位置する大きな宿、『雪解け水のせせらぎ』亭。その2階の一室に、ジークは怒声を響かせた。
「遅い時間だ。大きな声を出すな」
 ジークの怒声と対照的な静かな声が答える。そのまま視線を送ることなく、荷物の中から地図らしきものを数枚取り出すと、ロイは地図上の文字を追い掛け始めた。ジークの眉間の皺が深くなる。
「突然姿を消したかと思えば、よりにもよって何だってあんな処にいるんだ! 面倒ばかり掛けやがって」
「――別に助けてくれとは言ってないが?」
 地図から視線を外さないままぴしゃりとそう言い放つと、ロイはジークの言葉を奪った。
 窓から差し込む月明かりが、その端正な横顔を照らし出す。その横顔を見ながら、ジークは何度めかになる大きな溜め息を落とした。
 ジークがロイに出会ったのは今から4年ほど前のことになる。初めて出会った時から、人間であることを疑いたくなるほどロイの造形は飛び抜けていた。だが、共に旅をするようになり、その美しい容姿や立ち居振舞いとは似ても似つかわない、いやある意味ふさわしいのかも知れない言動にジークが腹を立てたことは一度や二度ではない。ロイという人間はいつだって何者にも執着を示さない。とりわけ自分というものを決して大切にしようとはしない。今回のような無謀な行動に出ることも珍しくはないのだ。それでも、ロイの実力もよく承知しているジークである。大抵のことは黙認するのだが――。
 今回だけは妙な胸騒ぎがした。そして今もその胸騒ぎは収まらず、苛立ちの矛先は当然ロイに向かっていた。
「お前、あんな時刻にあんな酒場に入ってどうなるか、気付かないほど愚かじゃねぇだろう?」
(俺には、わざと自分を傷つけようとしているとしか思えないんだが)
 続く言葉は飲み込んで、ジークはロイを睨み据えた。
「身包み剥がされて殺されたかったのか? それとも連中の玩具にされたかったのか?」
「……まさか。今日みたいな月の明るい夜はごめんだな」
 珍しく食って掛かり続けるジークに、一旦手を止めてロイは視線を上げた。色素の薄い青灰色の瞳がジークの姿を映してわずかに細められる。
「でも、助けてくれただろう?」
 その言葉に核心を突かれたような気がして、ジークは長い吐息と共に天を仰いだ。その様子に、あまり表情を変えないロイが少しだけ笑った。

 実際、ジーク自身にもよく判らない。
 ロイが相棒としてかなり有能であるのは確かだが、面倒に巻き込まれることも多い。そんな男と何故組み続けているのか。

 天を仰いで溜め息を1つ。そして半ば諦めたかのように1つ伸びをして、ジークはロイが見つめていた地図に視線を向けた。
「……で、何見てたんだ?」
 エトゥスとその周辺の地図である。×印がついているのは、おそらく涸れた泉の場所なのだろう。その傍には小さく日付が書き込まれていた。
「ふうん。ここいらが最後まで水があった地区になるんだな」
 指差しながら呟くジークに、ロイが頷いて答える。
「ああ。北に入った森には、まだ小さな泉が残っていた」
「……って、お前、『魔の森』に入ったのか?」
「彼らの領域は侵してないさ」
 エトゥスの北にある森は別名、『魔の森』とも言われる。近づくことが禁忌であるのはここ辺りに住む住人なら子供でも知っていた。森の住人である孤高の種族エルフは、人間との接触を嫌い、誤って入ってしまった者ですら生きては出られない。ロイは壮絶な美貌の持ち主とはいえ、れっきとした人間に属する。決して例外ではないはずであった。
「……相変わらず、無茶しやがる」
 そうぼやくジークの声を無視して、ロイはその白く細い指でジークの視線を地図の一角へと導いていく。
「ここに、すべての原因が眠っている」
 その場所は、事件の始まった場所、つまり最初に涸れた泉。
「馬鹿言え。そこなら、役人が何度も調べただろう? お前も調べてたじゃねぇか」
「そう、地上はな」
「……何? ってぇことは……」
「そう。地下だ。それも大昔の地下道。もっとも今は使われていないようだがな」
 涼しい顔で答えるロイの瞳を見つめ返し、ジークは息を呑んだ。ジーク自身、危険なことを請け負って金銭を得ている身である。閉ざされた地下道という言葉が何を意味するのか考えなくても判っていた。人でない、あるいはドワーフですらないものが巣くっているのだ。
 ジークの中で、いつまで経ってもざわざわと収まらない胸騒ぎが大きさを増した。
「――行くのか?」
 一応尋ねてみるジークに、ロイが「当然」といった顔で頷き返す。
「エトゥスの水の精霊たちには、借りがあるしな」
 ロイが言うところの『借り』が何のことなのかは、もちろんジークも知っていた。
 ロイは唯一苦手とするものがある。
 その理由はジークも知らないが、大きな炎を前にするとロイは動けなくなるのだ。以前エトゥスから少し離れた遺跡に潜り込んだ際、古い装置が発動し炎が舞い上がったことがあった。それ自体は大したものではなかったのだが、炎を前にしてロイが精神的恐慌を来たした。そのロイを救い出したのが、エトゥスに数多く存在する水の精霊たちだったというわけだ。
 もっともロイ自身が水の精霊魔法を使ったのだから、それが『借り』になるのかどうか。ただ、ロイと精霊たちの間には、普通の精霊魔法使いと精霊たちの間にない何かがある。それはジークも肌で感じ取っていた。
 だからこそ止めるべきなのだ。ジークの中で何かがそう告げた。だが同時にそれが不可能であることもジークはよく知っていた。
「……俺は降りるぜ。何の腹の足しにもなりやしねぇ」
 しばしの沈黙の後そう告げて、ジークはロイの表情を見つめた。ジークの視線の先、ロイの双眸が一瞬だけ驚いたように見開かれ、そしてまたすぐに細められる。その後に残るのは、涼やかな表情だけだ。
「いいさ。別に強要はしていない」
 何でもないことのようにそう言い放ち、そのまま背を向け、ロイは荷造りを始めた。無駄のない流れるような動作には、動揺の欠片も見出すことは出来そうにない。
「ちっ、可愛げのねぇ。『手伝ってくれ』くらい言えないのか?」
 背中に問いかけるが、いつもの如くロイからの返事はなかった。
(ま、これくらいで止めるつもりなら、口に出さねぇだろうしな……)
 心の中でだけそうぼやき舌打ちを残すと、ジークは1人先に寝台の中へ潜り込んだ。


 翌朝、夜明けとともに、ロイは部屋を後にした。目を覚ました時には既にジークの姿はなかった。
 ジークがいることを何処かで期待していたことに、ロイは小さく1つ吐息を落とした。独りには慣れていたはずなのに、いつの間にか傍にいてくれる事を期待している。自分の中でジークの存在が大きくなりそうで、しきりにそれを否定しようとする自分がロイの中にいた。

 あまり、深入りしてはならない。させてはならない。

 それはロイにもよく判っていた。
 ロイが背負う運命はあまりに重い。だから、その道を選んだ瞬間に、ロイは独りで生きていくことを決めた。
 その決意が揺らぐ。少しでも長く傍にいたいと願ってしまう。
 そう思う自分が何よりロイには腹立たしかった。

 無理矢理何かを振り切るように小さく1つ息を吐いて、ロイは昨夜まとめた荷物とレイピア、ショートボウを手にし、宿屋の扉を開いた。


「遅ぇぞ。ロイ」
 その声に、ロイは瞳を丸くした。振り返った視線の先、扉の横にもたれ掛かるようにしてジークが立っていた。外套の下には堅い皮鎧を着込み、大剣を携え、その背には必要品を小さくまとめた皮袋を背負っている。何処から見ても旅支度である。
「……降りたんじゃなかったのか。ジーク」
 込み上げようとする感情を抑え込んで、ロイは出来るだけ冷静な声でそう答えた。その目の前でジークが何やら1枚の紙をひらひらさせる。
「山分けだからな」
 どうやら水不足に悩む街が、解決者に報奨金を出すことになったらしい。この小さな街が出せる金額は微々たるもので、これからの危険には到底割が合わないと思われたが。
「行く理由ができた。おら、さっさとしやがれ」
 ぶっきらぼうにそう言い放ち、ジークは街の外門に向けてすたすた歩き出した。小さく息を吐いて、ロイもその後を追う。
 ジークが纏う深緑色の外套が風に靡く。その後ろ姿を見つめながら、ロイはほんの少しだけ口元を綻ばせた。




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