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「……ロイ、ロイ」
自分の名を呼ぶその声に、ロイは瞳を開いた。薄く開いたその瞳が、声の主を捉えて大きく見開かれる。
淡い茶色の髪が陽の光に輝いていた。そして、意思の強そうな大きな赤褐色の瞳がロイの姿を映していた。
「――――アルフ、」
思わず忘れていた呼吸とともに、ロイはその名前を音にした。
何度も会いたいと思った。同時に再会することを恐れていた、愛しい存在――。
「……何故、」
身を起こそうとして、ロイは膝から崩れ落ちた。その身体を柔らかい寝台が受け止める。巡らせたロイの視界に、見慣れた、しかし今は懐かしい品の良い調度品が映った。大きな窓にかかった白いカーテンが風に靡き、明るく柔らかい陽の光を部屋に運んでいる。
「ロイ、まだ無理しちゃだめだよ?」
懐かしい笑顔のそのままにそう告げ、アルフは寝台の端に腰を下ろした。
「……ここ、は、どこだ?」
「何言ってんだ。ロイの部屋じゃないか」
そのとおりだった。ロイの記憶と寸分違わないこの部屋は、ロイの父が暗殺され、北の搭に幽閉されることになったあの日までのロイの部屋だった。
「……お前は、誰だ?」
「どうしたの、ロイ。アルフだよ」
懐かしい顔で、懐かしい声でアルフが笑う。
「……違う。アルフのはずがない……」
「じゃあ、誰なんだよ?」
意志の強い声がロイに尋ね返す。
「……アルフ、は……、」
(こんなふうには笑わない……)
この5年間、ロイはアルフとの再会を何度も想像した。その度に思い出されるのは、最後に見たアルフの表情だった。
憎んでくれていい。そう願ったのはロイ自身だ。
アルフを死なせたくなかったから、アルフを裏切り、全てを捨てた。そしてロイは、アルフを守る唯一の切り札である精霊石を所有し続けるためだけに生きてきた。
「――憎んで欲しいの? ロイ」
何処か冷たいアルフの声が、ロイの頭上に落とされる。
「えっ?」
次の瞬間、アルフの両腕に肩を抑え込まれ、ロイは瞳を見開いた。
「ん……っ、」
突然唇を塞がれ、ロイは動揺した。一瞬遅れて抵抗を試みるが、抵抗しようにも信じられない力で抑え込まれ、身動き1つ出来なかった。
アルフの舌がロイの口腔内を貪っていく。
「……ん、んっ、……んんッ!」
抵抗したいのかしたくないのか。抵抗すべきなのかすべきでないのか。
混乱する頭で、ロイは答えを探し続けた。
ただ1つだけ確かなことがあった。
「ずっとこうされたかったんだろ? ロイ。ずっと前からこうして俺に抱かれたかったんだろ?」
どこか淋しげな赤褐色の瞳に見つめられた瞬間から、抗うことなんて出来なかった。
「……違う」
何とかそう否定したものの、その声が震えているのはロイも自覚していた。
「違う」
振り切るようにもう一度そう言葉にする。
だが、それすら嘲笑うようにアルフは声を上げて笑った。
「抱かれちゃえよ、ロイ。何もかも捨てて、さ」
細い身体を抑え込み、アルフはロイの衣服に手を掛けた。そのまま左右に開くと、ロイの白い胸元が露になる。
「きれーな肌」
そう告げて、アルフはロイの胸元に顔を埋めた。
「……アルフ、……お願いだ……っ、や……っ、」
「嫌じゃないだろ? お望みどおり憎んでやるよ、ロイ」
その言葉に、ロイは声を喉に張り付かせた。見開いた瞳から一筋だけ涙が零れ落ちる。
そして抵抗らしい抵抗も出来ないまま、ロイは小さく首を振った。
「ロイッ! おい、ロイッ!」
その声に、現実へと引き戻される。
「ロイッ!」
ロイの瞳の中で、ぼやけた映像が徐々に確かなものになった。
ロイの意識が、濃い茶褐色の髪と深い漆黒の瞳を確認する。
「……ジーク、」
ロイとラギを庇うように立ち、ジークはゴブリン達を相手にしていた。
疲労の色が濃い。いや、それでけではないようであった。
時折苦しそうに顔を顰めている。いつの間に傷を負ったのだろう。ジークの左腹からは血が滲んでいた。そこから禍々しい気配が漂い、ジークの生気を奪っていくのが判る。
「ジーク!」
状況を把握して、ロイは身を起こした。
「ロイ! 無事かッ?」
ロイの声を確認し、振り返ることなくジークがそう答える。
「……ジーク。何処かにこいつらの指揮官がいるはずだ。そいつが水の乙女を狂わせている。少しでいい。時間を稼いでくれ」
「おう。ここは大丈夫だ。行け、ロイ」
そう答え、ジークは大剣を握り直した。
ちょうどその時、ロイの隣で呻き声を上げながらラギが目を開けた。
「……ラギ。ここを頼む」
静かにそう告げるロイの声に、ラギは大きく頷いて戦斧を握り締めた。そのままジークの許へ駆け出していく。
それを見届け、ロイは先程自分を襲った奥の暗闇に手を掲げた。黒く濁った水が禍々しく、そして苦しそうに蠢き、ロイの行く手を阻もうとする。
「…………風の精霊石よ」
凛と響く声でロイはそう告げた。1つ息を吸い込む。そして意を決したように閉ざしていた左の掌を開いた。
ロイの掌上に眩い輝きが集まっていく。
風の精霊石――。
現れたその蒼い球体を瞳に映して、ロイは長い吐息を落とした。
「水の乙女たちよ、友に道を開けよ」
滑るような響きを持つ音で、ロイはそう言葉にした。風が舞い、濁った水を払っていく。
「――そこか」
開けた道の向こうに、ロイは精霊使い(シャーマン)姿のゴブリンを見つけた。
首から提げた飾りの先にある深い翠色の石が、ロイが持つ蒼い球体に呼応して輝きを増していく。
(あれは……、水の、精霊石?)
その輝きは、ロイには見覚えのあるものだった。遠い昔、ロイの父ミルフィールドの左手にあったものである。ミルフィールドの死により四散したのを、ロイもその目で見ていた。
「ぅわぁ――ッ、お、おお……おッ」
どんどん輝きを増していく石の力に耐えられなくなったのだろう、ゴブリンシャーマンが苦痛の声を上げた。
「それはお前の手に余る。……今、楽にしてやる」
そう告げると、ロイは素早く矢を番え、精霊石を手にした左手で狙いを定めた。
「……風の精霊よ。我に闇を払う力を与えよ。我が矢を導け」
光る矢が真っ直ぐ駆け、寸分違わずゴブリンシャーマンの胸元に突き刺さる。ゴブリンシャーマンは小さく喚き、そのまま動かなくなった。
その後、他のゴブリン達は奇声を上げながら、逃げ去っていった。
「ロイッ」
地面にしゃがみ込み、一向に動こうとしないロイの元に、ジークとラギが駆け寄る。
ロイの向こう側で、泉は元の澄んだ色を取り戻して湧き、喜びに震えているように見えた。
「……それは?」
ロイの視線の先を覗き込み、ジークはそう問い掛けた。石の欠片を見つめ続けるロイの青灰色の双眸には、珍しく明らかな動揺の色が見え隠れしている。
「ロイ?」
ジークの声に我を取り戻し、ロイはようやく膝を折ってその翠色の石の欠片を拾い上げた。
『――ロイッ?』
石に触れたその瞬間、ロイの目前に映像が広がる。
それは、懐かしい故郷の光景だった。
そして、薄茶色の髪と赤褐色の瞳はそのままに、逞しく成長した青年がロイを振り返った。
だがそれは一瞬のことで、その直後にはロイは元の地下道にいた。
「……アルフ」
小さく名を呼び、ロイは辛そうに瞳を伏せた。左手で石をぎゅっと握り締める。一際眩い光を放った後蒼い精霊石は姿を消し、ロイの手の中には翠色の欠片だけが残った。
「どうした、大丈夫か、ロイ。……それは?」
左手で腹部を抑えながら、ジークが心配そうにロイの表情を覗き込む。
「……ジーク」
ゆっくりと視線を動かし、ロイはジークの深い漆黒の瞳を見つめ返した。
(時が、動き出した……)
ロイの中で、予感が確信へと変わっていく。
「ロイ、どこか傷めたか?」
「……自分の心配をしろ、ジーク」
明らかに負傷しているのはジークの方である。だが、ロイの異変を感じ取ったのか、まるで自分の傷のことなど忘れたかのようにジークはロイの様子を気に掛けた。そんなジークの真剣な眼差しに込み上げてくる何かを抑えられなくて、ロイは唇を噛み締めて視線を外した。
(真実を告げれば、この男はどうするだろうか……?)
ロイ自身の結論はとっくに出ていた。
別れを告げる時が来たのだ。
静かに、青灰色の瞳を伏せる。
時が動き始めていた。