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それはあまりに突然の出来事だった。
「王位継承権を放棄することにした」
兄上の執務室に呼び出され、そう告げられた。
寝耳に水とはこういうことを言うのかも知れない。
こんな展開は、全く予想もしてなかった。
「後は任せたぞ、ティン」
兄上の傍若無人振りは何も今に始まったことではない。
でも、今回のご決断ばかりは受け入れることは出来ない。
兄上が王位継承権を放棄なさるということは、だ。
第2王子であるこの俺が立太子しなくてはならないということを意味する。
兄上は、弟の俺から見ても優れた器量の持ち主だと思う。
統率力、決断力――。どれをとっても、兄上ほど次期国王に相応しい人間はそういない。周囲の期待はもちろん、兄上ご本人だってちゃんと理解してらしたはずだ。
生まれてこの方30年近く、兄上は理想の王太子だった。
その兄上が、王位継承権を放棄するとおっしゃる――。
事の発端は3年ほど前に遡る。
兄上は、父である国王陛下の名代としてラストア王国に赴いた。で、兄上がおっしゃるには、一目見た瞬間、恋に落ちたのだそうだ。
帰国後、兄上はすぐに行動を開始した。見初めたその相手を妻にすると、父上の前でそう宣言なさった。
兄上のご性格から考えて、攫って来なかっただけでも良しとすべきなのかも知れない。
――もっとも、その相手は簡単に攫える人物ではなかったのだけれども。
フリードリヒ=ラス=キシュバルト王子。
リルベ地方最強といわれるラストア王国の、正真正銘第2王子その人だ。
一度だけだが、俺もお会いしたことがある。
フリードリヒ王子という方は、大国の王子とは思えない、気さくで明るく、よく笑う方だった。兄上の不遜な態度さえ笑って受け止めてらしたその姿は、とても印象に残っている。
だが、婚姻となると話は簡単にはいかない。
大国の王子というフリードリヒ王子のご身分もそうだが、我がガリル王国と異なりラストア王国では同性同士の婚姻は認められていない。側室を持つことも禁じられている。一方、兄上はいうと我がガリル王国の王太子だ。嗣子を残せない者を正妃に迎えることは出来ない。
問題は山積みだった。
だが、兄上は決して譲らなかった。
フリードリヒ王子を正妃とし、他に側室は娶らないことを決めていた。
事態が急展開したのは2年前。
ラストア王国が、闇の力を手にしたカルハドール王国に攻め入られたのだ。
王都まで侵攻されたラストア王国は、その戦いで国王と第1王子を失った。フリードリヒ王子が一命を取り留められたのは奇跡としか言いようがない。
そして、その後に続いた闇との戦い――。
フリードリヒ王子は、残された者たちの希望の旗印となることを決断なされた。
そして、この世界に光が戻った今、フリードリヒ王子は“王”と呼ばれる存在になられている。
兄上にとっても、予想外の展開だったに違いない。
――兄上は全ての計画を諦めざるを得なかった。
「父上との話し合いは決裂した。私は全てを捨て、フリードリヒの許に行く」
兄上は本来、そんなことをおっしゃる方ではなかった。
1人の人間のために犠牲を払うなど、兄上の頭にはなかったはずだ。
夕焼け空を見つめる兄上の姿が、窓に映る。
その表情がどこか満足げに思えて、悔しかった。
暗い感情が込み上げてくるのが判る。
父上は、兄上に多くの期待を寄せている。
家臣たちだって、国民たちだって、そうだ。
あいつだって例外ではない。
僕には教えないその名前を、兄上だけには教えている。
どんなに望んでも、俺には得られないもの。
その全てを、兄上は捨てるとおっしゃるのだ。
これは嫉妬だ。
ずっと抑え込んでいた劣等感という暗い感情が、刃となって兄上に向けられていく。
褐色の肌にかかる闇色の髪、空色の瞳。
纏う色はこんなにも似ているのに。
兄上と俺とでは、何もかもがあまりに違う。
兄上には、“恋人”がいる。
その恋人のために、全てを捨てる決意をなされる。
兄上の恋人はきっと、兄上という人間を理解し、優しく微笑むのだろう。
いつか見た、あの光景のように――。
「俺にだって……」
――“恋人”がいる。
喉から出かけたその言葉を、俺は音にすることができなかった。