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頭の中は混乱し続けているのに、身体は正直なものだ。
気が付けば、俺はその扉の前にいた。
でも俺は、ここに来て、どうしたいのだろう。
兄上を諌めることは、あいつにだって難しい。
それは俺にも判っていた。
でも、相談したかった。
俺が立太子することになれば、今までどおりの関係ではいられなくなる。
俺を失うかもしれないその可能性に、あいつはどんな表情を見せるのか。
一瞬でもいい。
困惑してほしい。
悩んでほしい。
「どうぞ」
その声に、心臓がどきんと跳ね上がった。
どうやら俺が来たことに気付いたらしい。俺の目の前で、扉が音もなく開かれる。
視線を上げると、幾筋もの蒸気の向こうに、あいつの姿が見えた。
「どうなさいました? 殿下」
しばらくして紅茶が差し出される。俺は、震える膝をごまかしながら、傍にあった椅子に腰を下ろした。紅茶を受け取り、視線を上げる。
研究の途中だったのだろう。彼は、長衣を腕まくりし、少し伸びた赤茶色の髪を無造作に纏め上げた格好だった。眼鏡の向こうにある薄茶色の瞳と視線がぶつかり、慌てて視線を戻した。1つ息を吸い込んでから、手にした紅茶を口に運ぶ。
正直言うと、この部屋で何かを口に入れるのはとても勇気が要る。
でもそんなことは、口に出して言えなかった。
こくりと紅茶を嚥下すると、眼鏡の奥の瞳がくすっと笑ったような気がした。
「落ち着かれましたか?」
その言葉に、ここに来た本来の目的を思い出した。
「……兄上が、」
彼を前にそう言い掛け、突然心に迷いが生じる。
俺の中で誰かが警告していた。
この先は言ってはだめだ。
言ったら、きっと後悔する。
――だって、知りたくないだろう?
「……あ、……な、何でもない」
情けない。
相談することすら出来ない。
落した視線の先で、紅茶が小さく揺れていた。
手が震えているからだと気付くと、無性に悲しかった。
そう、俺は知りたくない。
こいつの本当の気持ちなんて、気付きたくない。
なのに――。
「……王位継承権を放棄するとでもおっしゃいましたか」
頭上から落とされたその台詞に、心臓が止まるかと思った。
驚きも隠せないまま、俺は彼を見上げた。
「し、知、っていたのか、」
俺の視線の先にあるのは、俺の“恋人”の顔。
それなのに、まるで他人事のように穏やかな表情を浮かべている。
そして、
「ええ、3日前、直接相談を受けましたから」
その事実は、当然のように突き付けられた。
3日前というと、この部屋の前で兄上に出会った日だ。
あの日、兄上はこいつに相談を持ち掛けたのか。
おそらく、誰よりも先に――。
考えてみると、当たり前なのかも知れない。
こいつと兄上は、塔の学院の最高峰である第1の塔の同期生、少年時代の10年間をともに過ごしたルームメイトだ。今でも互いに信頼し合っている。
「……相談を受けて、兄上を、止めようとは、思わなかったのか、」
だめだ。
声が震える。視界が滲む。
「止めて聞くような方ですか」
ぼやくその言葉はもっともだけど。
でも――。
「あ、兄上が、王位継承権を放棄なさったら――、」
「あなたが次期国王ですね」
見開いた俺の目の前で、よろしくお願いしますとでも言うかのように、彼は僅かに頭を下げた。
何かが音を立てて崩れていく。
「で、でも、俺には……、」
だめだ。止まらない。
知りたくないのに。
知ってはいけないのに。
「俺には、お前が……」
「私が何か?」
彼が小首を傾げて微笑んでいる。
もう決定的だ。
俺が王位を継ぐことを、こいつは何とも思っていない。
こいつにとって、俺はそんな存在なのだ。
俺たちは――、
「お前の本名だって、知らない……」
――“恋人”なんかじゃない。
「お知りになりたいのですか?」
笑顔とともに告げられたその言葉には、小さく首を振って答えるしかできなかった。
俺たちは、“恋人”なんかじゃない。
そう、最初からずっと――。