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―卒業7―
だめだ。エルの瞳に囚われてしまう。
薄灰色の瞳が、淡紅色を帯びていくのが判った。
エルの空間が拡がっていく。
見ちゃだめだ。
なのに、その瞳から視線が外せなかった。
え……?
その時、何かが見えたような気がした。
「あ……、」
その途端、意識が引き寄せられた。
エルの意識に感応する、そう直感した。
誰……?
誰かがこっちを見ている。
少しくせのある黒髪が、微かに揺れた。じっと見つめる栗色の瞳はまるでガラス玉のようで、一片の感情も映さない。
セイだ。
今のセイほど長身ではないけど、手足もずっと小さいけど。そう、多分、編入してきた頃のセイだ。間違いない。
そのセイが口を開いた。一言、二言、何かを口にしたように見えた。
そして、誰かの手が、その口を塞いだ。
何……? 何をしようとしているの……?
小さなセイを、抑えつける。両脚を開く。細い腰を引き寄せる。
セイの口から声にならない悲鳴が上がった。小さなその身体がびくんと跳ねて、力を失くした。
この光景は、何……?
感情を表さないセイの瞳が、誰かの姿を映す。
エル、だ。
その途端、ずきん、と胸が痛んだ。
景色が流れていく。
痛い、痛い……。
苦しい……。
何だろう、これ。
たくさんの大きな手。仮面を被った人たち。
ぞくり、と恐怖を感じた。
「……何、視たの? リュイ」
その声に、現実へと引き戻された。すぐ目の前にエルの顔があった。
その顔は、相変わらずくすくす笑っていた。でも、その声に笑みはなかった。
「エル……?」
「別に驚かないよ。僕の空間は便利だけど、僕の心と繋がっているからね。僕が忘れてしまいたい心の奥だって視えることがある。リュイで3人目だ」
そう説明を加えて、エルはまたいつものようにくすくすと笑った。
その表情から、視線を外すことが出来なかった。
今なら判る。
エルの笑顔はきっと、いろんな想いを隠すためだ。
「……何、泣いてるの?」
そう言われて、涙が溢れていることを認識した。
胸が痛い。ずきん、ずきん、と悲鳴を上げている。
つらい、痛い、苦しい。
「これ、きっと、エルの涙だ……」
そう告げると、目の前のエルの表情がほんの少し強張った。
「……シリル教団って、知ってる? リュイ」
1つ息を吐いて、エルがそう尋ねてくる。
その真意は判らなかった。でも、ちゃんと聞かなくてはならない、そんな気がした。
聞いたこともないその名前に小さく首を振って答える。
「邪神を崇める教団だよ。今はもうないけどね」
くすり、と1つ笑みを零すエルの唇は、微かに震えていた。
何だろう、胸の痛みが強くなっていくような気がする……。
「その教団には、神子っていうのかな、そう呼ばれる子供がいてね。邪神の器になるためには、たくさんの精をその身に受けなくてはならない。……判る? 愛情を知らないまま、その子は毎日抱かれ続けたんだよ。……そんな子が大きくなったら、どうなると思う?」
くすくすくす……。
エルの笑う声が大きくなる。
この胸の痛みは、エルの痛みだ。
その神子は、エルのことだ。
そう確信する。
「そんな子はね、きっと他人を傷つけることしか、出来ないんだよ……」
エルの指が肌を滑り落ちていく。
「はい、おしゃべりはここまで。いい声聞かせてね」
耳元で、少し淋しげに囁く声が聞こえた。
―卒業8―
「……だめ、だよ」
そう声にしたものの、抑え付けられると逃げ出すことも出来なかった。
エルの空間に囚われた以上、魔法を発動させることも出来ない。
それでも、止めなきゃいけない、そう思った。
みんな、傷つくだけだ。
そしてきっと、エルが一番傷つく。
力の限り、抵抗を試みる。なのに、エルの動きを止めることすら出来ない。
自分の力のなさが、本当に悔しかった。
溢れてきそうなる涙をぐっと堪えた。
「僕が好きなのは、エルじゃない……」
ちゃんと伝えなくてはならない。そう思って、言葉にした。
「それでもいいよ。僕は僕の目的のために、リュイを抱くだけだから」
笑ったまま、エルがそう答えた。
目的……?
くすり、と、もう一度エルが笑う。そうして、片手を翳すのが見えた。
「誓約環。不思議だろ?」
そう言われて、はたと気が付いた。
互いの出自は明かしてはならないのが、この学院での絶対の規則だ。
先程の話は、誓約環が切れても不思議ではない。
傷1つ、ついていない……?
「僕の誓約環は切れない。それは、この学院から出られないことを意味している」
どうして……?
そう考えて、答えに気付くのに時間は掛からなかった。
エルの特殊能力は、全ての魔法を無効にさせる。危険なものだ。
学院が手放すはずがない……。
「ところが、リュイを抱いたら、ここから出してくれるってさ。もちろん条件付きだけどね」
え……?
「僕はここを出たい。ここにいたら、あいつを傷つけてしまうから……」
小さく零れたその言葉の中に、真実が見えたような気がした。
さっき視えた光景が、脳裏に浮かぶ。
「それって、セイのこと……?」
そう告げると、エルの瞳が大きく見開かれた。少し考えてエルが静かに頷く。
「……それも、視えた?」
それも……、というより、それが視えた。
そう考えて、ふと気が付いた。
そうか。エルにとって、一番つらい記憶なんだ。
子供の頃のつらい記憶よりも何よりも、セイを傷つけた、そのことが一番――。
「4年前だよ。初めて会った日、忘れようとしてきた心の奥に触れられた。セイは感応力が鋭いからね……」
何となく判っていた。一片の感情も見せないセイの栗色の瞳は、ふとした瞬間に心に触れてくることがある。
「で、気が付けば、セイを犯していた。そう、セイの心を壊したのは、僕だよ」
くすくすくす……。
エルがまた笑う。
痛い、痛い、痛い。
嘘吐きだ、エル。
こんなに胸が痛いのに……。
「そういや、シアも犯したっけ。ライの傍で変わっていくのが許せなくてね……。あいつも心に闇を持っていたはずなのに、変わっていく、心を取り戻していく……。ふふふ、で、もう一度突き落としてみたんだけど、しぶといよね、あいつ」
何で、こんなことを言うのだろう……。
こんなに痛いのに、つらいのに。
「さあ、次は、お人形さんの番だ」
「嫌だ」
そう答えて、エルを睨み付けた。
「そんな表情(かお)しても、相手をそそるだけだって、知らないの?」
くすり、と、エルが笑う。
腰紐が外されるのが判った。エルの指が滑り込んでくる。
だめだ、だめだ。
違う、違う。こんなのは、違う。
「僕が好きなのは、カイだ……」
そう呟くと、「だから?」とでも言いたげに、エルは首を傾けた。
「エルだって、ちゃんと言えばいい……。セイが、好きだって!」
そう、この胸の痛みは、大好きな人を傷つけた痛みだ。
エルはセイが好きなんだ。
なのに、どうして言わないの?
どうして、離れたいって思えるの?
「……嘘吐き。エルの嘘吐き」
感情が制御できない。また、涙が溢れてきてしまう。
「痛い……。痛いよ、エル」
声が震えた。でも、ちゃんと伝えなきゃいけない。
エルの胸にそっと手を伸ばす。指先が触れると、エルがびくっと反応した。
「ここだよ。ここが痛い。きっとセイを傷つけた痛みだよ」
ちゃんと判って。
エルは、傷つける痛みを、知っているよ。
「大丈夫。傷つけることしか出来ない人なんていないもの……」
気が付けば、目の前のエルをぎゅっと抱き締めていた。
どのくらいそうしていただろう。少しして、エルの笑い声が耳に届いた。
「……ふふふ、でもね、リュイ。得意なんだよ、僕。他人を傷つけるのが」
そう言って笑うエルの声は、どこか淋しそうに響いた。
ズボンが下ろされる。閉ざした膝をこじ開けられる。
「嫌っ!!」
胸の痛みが、だんだん強くなっていく。
「嫌っ!! させないっ!」
これ以上、傷つかせたくない……!
その時だった。
抑えられていた指先に何かが触れたような気がした。
視線を上げると、夏空色の瞳がそこにあった。
『リュイ、手ぇ貸してやる。行け』
そう告げるカイの声が聞こえた。
ぱぁんっ!
そうして、何かが弾ける音とともに、エルの空間が消えた。
ふふふ、というエルの笑い声が静まり返った部屋に響いた。
「まいったね。こんなの、初めてだ」
弾かれた拍子に床にぶつけたのか、肩を擦りながら、エルが立ち上がるのが見えた。
「でも、さすがに今のでおしまいみたいだね」
エルの言葉どおり、カイの姿はもう何処にもなかった。
たぶん、何処かから映像と力を飛ばしてくれたのだろう。それが危険なことであるのは何となく判った。
「さて、どうしようか」
くすり、とエルが笑う。
負けるわけにはいかない。
覚悟を決めて立ち上がったとき、ガツンっという破壊音が聞こえた。
エルと同時に、音を立てた扉を振り返る。
「……セイ」
そこには、壊れた扉を倒しながら近付いてくる、セイの姿があった。
―卒業9―
「……ふふ、解錠の呪文も知らないの? セイ」
そう言って、エルはくすくすと笑った。
どうして、そんな平静な顔をしているの……?
エルの表情には、一片の動揺すら窺うことは出来なかった。
エルの視線を辿り、もう一度、セイを視界に映してみる。
そのセイはセイで、感情というものを全く感じさせない無機質な表情のままだった。
途端、ずきん、と胸が痛んだ。
セイの姿に、さっき見てしまった光景が重なった。
過去のことだと判っている。
目の前にいるセイは、小さな子供ではない。
背だって、僕よりずっと高い。手足だってすらりと伸びていて、顔立ちだってぐんと大人びている。
なのに、ずきんずきんと、胸の奥が消えない痛みを訴え続けてくる。
「……セイ、ごめんね」
表情を変えない2人の間で、気が付けばそう呟いていた。
これはきっとエルの言葉だ。
エルがずっと言えなかった言葉だ。
そう理解すると、涙がまた溢れてきた。
“ありがとう、リュイ”
何だろう。
その時、じっと見つ返していたセイの瞳が、そう告げたような気がした。
『セイの心を壊したのは僕だ――』
そうエルは言った。
でもどうだろう?
確かにセイは感情が欠落しているように見える。
だけど、エルを見つめるセイの瞳はいつも何処か哀しげにも見えた。
感応しやすいセイのことだ。きっとエルの哀しみも判ってくれているのではないか、ふとそう思えた。
「……エル」
セイの声だ。
呪文以外でセイの声を聞いたのは初めてのような気がする。
それは、少し低めの、それでいて良く通る、落ち着いた声だった。
セイの栗色の瞳が、真っ直ぐにエルの姿を見つめる。
隣でエルが息を呑むのが判った。ちらりと視線を向けると、肩を抑えたままのエルの手が微かに震えているのが見えた。
セイの手が伸びてくる。震えるエルの手を掴む。
そうして、
「俺は、生涯この学院に留まることを決めた」
セイは短く、そう告げた。
学院から出ない者に誓約環は不要だ。視線を送ると、セイの腕には既に誓約環が見当たらなかった。学院長に返したのだ。そのことが、セイの言葉が紛れもない真実だと語っていた。
「な、んで……? それがどういうことか……、外に、出られなくなる、って、判ってるのか……?」
そう告げるエルの声は、微かに震えていた。その表情からは笑みが消えていた。
「でも、エルを置いてはいけないから」
そう答えて、セイは掴んだ腕に力を込めた。
狼狽したままのエルを引き寄せるようにして、セイは扉に向かった。ただ部屋を出る直前、一度だけ振り返った。
「カイなら心配ないと思う」
僕の不安を感じ取ったのだろうか、セイはそう告げてくれた。
「……ありがとう」
そう答えながら、胸が温かくなるのを感じた。
見失いかけていたものが戻ってきたような気がした。
カイが好き。
うん、僕はカイが好きだ。
信じる。
カイは今もきっと頑張っている。
ずっと一緒にいられるように――。
だから、僕も今出来ることをきちんとする。
窓をぱあんと開けると、爽やかな風が吹き込んできた。
カイが抱き締めてくれている、そんな感じがした。
名前を呼ばれ、1枚の紙と指輪を受け取った。
第1の塔を卒業した証であるその小さな指輪は、重くも軽くも感じられた。
10年過ごした場所を振り返ると、何か熱いものが胸に込み上げてくる。
泣いちゃだめだ。
自分にそう言い聞かせて、零れそうになる涙をぐっと堪えた。
カイに再会するまで、泣かない。
そう決めていた。
卒業式が終わった今日、この学院を後にする。
学院にたった1つしかない門。卒業生10名が集うはずの最後の場所に、カイとシアの姿はなかった。
この門は、カイと初めて会った場所だ。
カイの隣で卒業したいと、そう願っていた。そうして同時に、一緒にいられるのはこの門を出るまでだとそう覚悟していた。
でも、今は違う。
顔を上げると、俯いたままのライの姿が見えた。何処か痛々しくて、一瞬声を掛けるのが躊躇われた。
その時、
「シアから伝言」
背後からエルの声が飛び込んで来た。
「“やらなきゃいけないことがある。それが片付いたら、何処にいても、世界の果てまででも、ライを見つけてみせる”ってさ。やっぱ強いな、あいつ」
くすり、と1つ笑みを零して、「惚れ直せよ、ライ」と、エルは付け足した。
そして、
「……僕に伝言を託すなんて、本当は黙っててやるつもりだったんだけど。リュイが哀しそうな顔してるからね」
そうエルはぼやいて見せた。
でも、シアのことだから、きっと視えていたんだと思う。
近い未来の、エルの心の変化を――。
「リュイ。また、会いたいな」
門の内側で足を止めて、エルがそう声を掛けてきた。
「僕も」
そう答えると、エルは楽しそうに笑った。
「カイにはすぐ会えるよ。もう大丈夫だから」
エルの言葉はきっと真実だ。そう確信する。
あの時、エルは確かに『リュイを抱いたら、学院から開放してもらえる』と言っていた。問い詰めることは出来なかったけど、僕が取引の対象になるなんて、どう考えても変だ。
たぶん、僕とカイは試されていたんじゃないかとそう思う。もし僕が、カイがいない不安に押し潰されてしまうようなら、きっともうカイに会えなかったのじゃないだろうか……。
そう思うと、ぞくりと背筋が寒くなった。
「幸せになりなよね、リュイ」
片手を上げて、エルが笑顔で見送ってくれた。
カイに会いたい。
カイが好き。大好き。
離れていても、この気持ちは大きくなるばかりだ。
早く会いたい。
きっと会える。
再会してみせる。
会ったら、何を話そうか――。
見上げると、カイのと同じ色の、何処までも澄んだ空が、そこにあった。