Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 白の桎梏 

 第3話 


「――もう陽は高いですよ?」
 その声に、コウは面倒くさそうに視線を向けた。案の定、不機嫌そうな視線が出迎える。
「私の部屋にまで悲鳴が聞こえました」
 てきぱきとした動作で、井戸の水を手桶に汲みながら、シャオがぴしゃりと言い放つ。不機嫌さを隠そうともしないその様子に、コウは口端を上げて苦笑した。腕組みをして井戸の端にもたれ掛かり、そのままシャオの作業を見守る。
「……我が耳を疑いましたよ」
「だろうな」
 少しも悪びれた様子がないその反応に、シャオは片眉を吊り上げた。コウはというと、1つ伸びをして雨上がりの空を見上げている。
「ま、悪いようにはしない」
「……あの少年に対しても、ですよ」
 シャオがそう釘を刺すと、コウは楽しそうに声を上げて笑った。
「お前、あいつを買うのが不服だったんじゃないのか」
「……今でも不服ですよ。ただ、」
 あそこに立たされる気持ちも少しは理解できますからね、と小さく続け、シャオは溜め息を落とした。
 空を見つめるコウの瞳が細められる。
 小さな台の上で、人ではなく、商品として扱われる――。
 決して忘れることの出来ない記憶である。
 10数年前、あの台の上で、シャオはコウと出会った。奇跡としか思えないその出会いがなければ、今頃どうしていたかなんて想像したくもない。
 だからこそ競売に割って入ったコウを制止できなかったのであり、昨夜の行為を許し難く思っていた。
 ただ同時に、コウという人間が何の考えもなく愚行に走る人間ではないこともシャオは十分承知している。
「――何を考えておいでですか?」
「さあな」
 率直な問い掛けをあっさりと逸らかされ、シャオはもう一度溜め息を落とした。長い付き合いである。こうなると素直に答えてくれないことも知っている。
「ま、あなたがあの少年を助け出した件に関しては、『里』の皆も、理解はしてくれるでしょうけどね……」
 シャオが云うところの『里』とは、遥か南方に位置する、切り立った崖の上の、小さな隠れ里のことである。それは、リリアン王国によって虐げられ、過去に傷を持つ者たちが生きる、“存在しない”はずの里で、コウとシャオもその中に属している。
「……どうだかな」
 空を見上げたまま、コウはそう呟いた。



「俺たちは、『ガリル』と呼んでいる――」
 何度めかの移動で辿り着いたその場所を、コウはそう説明した。ただその道程は、単なる移動と呼ぶのは相応しくないかも知れない。大地に模様を描き出し、いくつかの言葉とともに空間を飛び越える――いわゆる『魔法』と呼ばれるものである。
 その存在はスイも知っている。リリアンの一族は遡ればエルフ族に始祖を置き、コウたち人間とは異なり、精霊たちの声を聞くことが出来る。だが、スイの目の前でシャオが操っている文字は、スイの知るものとはかなり異なっていた。
 環境が生んだ力なのだと、シャオが説明を加えた。
 実際、ガリルの地は厳しいものだった。人里から遠く離れ、切り立った崖の上に存在するのだ。魔法でもなければ辿り着くことさえ至難の技だろう。
「――来い。見せたいものがある」
 コウに腕を掴まれ、スイは顔を上げた。その瞬間、微かな視界に夕焼け空が映し出される。
「…………っ、」
 その美しさに、スイは声を失った。
 スイにとって初めて見る夕陽だった。
 しばらくして、コウに引っ張られたスイの指先が何かに触れた。ごわごわとした硬いような柔らかいような質感。
「――木だ」
 そう説明され、スイは視線を向けた。掌ほどの太さの幹に頭上には緑の葉が溢れている。
「それから、川、草、花……、」
 スイの手を引き、コウは1つ1つ確認するように触れさせていった。
「風、」
 手を広げ、1つ息を吸い込んで、スイがそう続けた。
 その声に応えるように、長い白金の髪の間を風の精霊が愛おしげに舞う。足元では水面がさざなみ、水の精霊たちが出会いの喜びを歌っている。
 光の届かない半地底都市スピルリーチで、貪るように本を読んだ日々がスイの脳裏を過ぎる。暗い城の中、遠くから微かに聞こえる小鳥の囀りや風が運ぶ若葉の香りに想いを馳せたものだ。
 初めて出会うそれらは、感動という一言では到底表現できない。
「ここはな、神代に戦いで焼き尽くされ、草木の1本も生えない不毛の地だった。ガリルの民が必死に切り拓いた生きる場所だ」
 コウの言葉に、スイは小さく頷いた。
 眩いほどの生命力が溢れている。
 スイの故郷スピルリーチとは、あまりにも違う。
「あ、コウ様! お帰りなさい!」
「あ、ほんとだ。お帰りなさーい!」
 想いを馳せるスイの耳に、賑やかな声が飛び込んできた。何人かの子供たちが大きく手を振っている。
「おう、気をつけて帰れよ」
 答えるコウの声はとても楽しそうだ。

 この美しい世界を脅かす者がいる。
 懸命に生きている人たちを虐げる者がいる。

 両手をぎゅっと握り締めて、スイは無言のまま、天を仰いだ。




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