Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 Spirit Stones 

 第2章 喪失 
第3話 Place−大切な場所−


  「……ハサードだと?」
 色違いの瞳を持つその男が去った後、フォードはもう一度、その名を口にした。

 ハサード。
 膨大な情報量を誇るフォードの記憶が、その男の名が持つ意味をはじき出す。

 どのくらいの時間が経っただろう。
 当の昔に空になってしまった酒盃を、フォードはただ静かに見つめていた。
 そうして、意を決したように立ち上がり、片手で外套を掴んで店の出口へと向かう。
 ふと人の気配を感じて視線を上げると、フォードの薄茶色の瞳に、扉の横に立つ店の主人の姿が映った。
「おやっさん……」
「行くのかい? フォード」
 主人の問いに答える代わりに、フォードは人懐っこい笑顔を返した。その笑顔に主人が大きく溜め息を零す。
「本当は、二度と使わせたくなかったんだがな」
 独り言のようにぼやいて見せ、古い布の包みをフォードに差し出してくる。
「俺、後悔だけはしねぇ性質だから」
 微かな金属音とともに包みを受け取り、フォードはもう一度屈託のない笑顔を返した。そうして包みの中に2本の短剣を確認すると、素早い動作で袖の中に納めた。

 扉を開けると、いつから降り始めたのか、音もなく霧雨が降っていた。
 暗い夜道に霞む明かりを薄茶色の瞳に映す。
 そうして、片手で栗色のやわらかい髪をかき上げて、「それじゃ」と短く告げると、フォードは店を後にした。


「さすがは、商業都市シーランス。3年経つと変わるものだな……」
 小さく呟きながら、一つ一つ場所を確認して、フォードは歩を進めた。
 フォードの呟きのとおり、ここシーランスは商人と旅人の街であり、刻一刻と変化を遂げる街でもある。そうして、そのような華やかな表の顔と同時に、裏の顔を持つ街でもあった。一歩裏道に入り込めば、そこでは窃盗、賭博、売春などが日常茶飯事で行われる空間へと変化するのである。

「……ええっと、ここか」
 そこは、正に裏通りとの境界に存在する広場。
 その広場の片隅に腰を落として、石畳に刻まれた記号らしきものを確認すると、フォードは立ち上がり、裏通りへ向かおうとした。
 まさにその瞬間だった。
 霧雨に霞む視界の端に映った人物に、フォードは思わず足を止めた。

「……ジーク」
 広場の中央に存在する噴水。
 その縁に腰を掛けて、ほんの少し俯き加減で。
 どのくらいの時間、そうしていたのだろう。
 外套は霧雨を含んで、ジークに重く圧し掛かっているように見える。
 深い褐色の短髪から流れ落ちる水滴もそのままに、ジークは一点を見据えていた。
 ただ、次第に濃くなる霧雨を漆黒の瞳に映して。

「風邪ひくぜ? ジーク」
 やっとの思いで、フォードはジークに声を掛けた。いつもの笑顔を浮かべながら。
「……フォード、か」
 俯いたまま呟く端正なジークの横顔に、一瞬だけ視線を送る。
 その頬を伝っていたのは、雨の雫か――。
「どうした、らしくねぇぜ? ジーク」
 ジークから視線を外し、正面を見つめながら、フォードは隣に腰を下ろした。
 静かな、霧雨の音が、やけに大きく感じられる。
「……こんな雨の日は、嫌いだ」
 誰に告げるともないジークの低い声が響く。
「……こんな雨の日は、あいつがこのまま消えちまうような錯覚を覚える」
 握り締めた拳に、一雫の水滴が落ちた。
「初めて、あいつを抱き締めた場所なんだ」

 あの日も霧雨が降っていた。
 霧雨に溶け込むかのように、ロイは佇んでいた。
 いや、実際、溶け込めるものなら溶け込みたかったに違いない。
 ロイの瞳は、世界を映すことを拒絶していたのだから。

 壊れていこうとしていたロイを無理矢理繋ぎ止めたのは、
 あの青灰色の瞳に、この『世界』を映したかったからなのか。
 それとも、『俺』を映したかったからなのか。

 あの頃のロイは、生きることにも、自分自身にも、何の執着も持ってなかった。
 だた『アルフ』のためだけに、『生きて』いる必要があった。
 ただそのためだけに『生きて』いた。

 自分の心と身体を傷つけながら。

 全てが終わったとき、
 ロイが消えてしまわないように、
 今度は、『俺』が、
 ロイが『生きて』いくための理由になりたかった。

 それなのに。

「……ロイを、傷つけちまった」
 搾り出すような、ジークの呟きは、静かな霧雨に消えていく。
「ジーク……」
 唇を噛み締めて、漆黒の双眸を伏せて。

 そうして、想いを馳せる。

『待ち合わせ場所?』
『そう、待ち合わせ場所』
 そう言って楽しげに微笑んだロイ。
『俺が俺である限り、向おう。約束する。ジーク』
 自分が自分でなくなる、そんな不安を、誰よりも強く抱えていただろう。
 不確かな、それでいて大切な約束。

『いつであろうと、何があろうと、俺がお前を見つけてやる』
 そう告げた想いに偽りはない。

 今、風は、ロイの想いを運んではくれない。
 それでも。

「……必ず、見つけ出してみせる」
 低くそう告げるジークに、フォードが笑顔を浮かべる。そうして、ジークのがっしりとした肩を何度か強く叩いてみせた。
「期待してるぜ? ジーク」
 いつもの人懐っこい笑顔を浮かべて。

 その直後、
「フォード、行け」
 不意にジークの声が告げた。見ると、大剣の柄に右手を掛け、真っ直ぐ正面を見据えている。
「ジーク……」
 濃い霧に潜む気配に、フォードも自分たちが囲まれつつあることを知った。
 舌打ちして、袖から短剣を滑らせる。
「お前、この先に用があるじゃねぇのか。行け。ここは俺が食い止めてやる」
 そう告げて立ち上がり、ジークは大剣を真っ直ぐに構えた。霧の向こうの敵と間合いを計る。
「……見てたのか、ジーク」
「いいから、行け、フォード」
 背を向けたまま告げるジークに、「判った」と短く答え、フォードは駆け出した。
 フォードの足音を確認して、ジークが一気に間合いを詰める。
 激しい剣戟の音。霧を引き裂くその剣戟の間に、相手の姿がジークの視界に入った。

 それは、黒ずくめの衣装、深く被った頭巾の下に見える、紅い双眸――。

「……亡霊(レイス)風情が、何故ここにいるっ!」




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