さぬき商人
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小国ながら創意工夫で生きる文化風土

金比羅五街道を往来した「さぬき三白」

さぬきは一種、不思議な国でした。

現代風でいう香川県は、総面積1875.57平方キロ全都道府県の中で、もっとも面積

の小さな県です。

有史以来、水不足による干ばつに悩みされつづけ、イメ−ジとしては輪郭がはっきりしな

い感じです。

それでいて、万葉集の歌人・柿本人麻呂が歌ったごとく、

「玉藻よし、讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き」

飽きのこない魅力をたたえています。

その一例が金比羅参りです。

寺院参拝や巡礼 なかでも伊勢参りや善光寺参りに比べると、金比羅参りの歴史は浅

いです

現在の琴平町の西に位置する、象頭山の中腹に鎮座する金比羅大権現は、その創始

が何か明らかでなく、ひと言でいって、たいした「霊山の鎮守」ではありませんでした。

江戸時代に入っての慶安元年、社領330石となっていたものを、懸命に運動して将軍

家の朱印地 幕府の監督下に移り、金比羅大権現別当金剛院の住職は、将軍の代替

わり、金剛院住職の交代4、5年に一度の年頭祝賀のため参府を義務つけられた。朱

印地にすることに成功したことが大きい要因です。

これを企てたのは、ときの別当ゆうげん、助力したのは高松藩主・松平頼重です。

宝暦3年には朝廷より、「日本一社のりんじ」を受けることに成功しています。

朝幕の権威づけができたわけで、高松・丸亀・多度津などの地元の藩はもとより、18

世紀に入ると西国大名の参詣や代参が広まりました。

加えて、この金比羅大権現はおおらかもので、本来は海上安全の神として信仰されて

いたはずのものですが、いつのまにか現世利益を願う人々の望みをかなえるように

なりました。

今一つ、全国からの信者を集めた最大の要因は地理上の利点もわすれてはいけ

ません。

讃岐は中国地方・四国全域・畿内各地、それに九州までを視野に入れて、各々を結

ぶ瀬戸内海のほぼ真ん中に位置しています。

この立地が古くから中央の文化を中継する土地として栄え、商いを四方へ広げること

につながりました。

金比羅参りにかぎってみても、金比羅五街道が整備されていました。

五街道のうち讃岐で一番距離があり、重要であったのが高松街道。

次いで丸亀からの丸亀からの丸亀街道、多度津からの多度津街道、阿波からの阿波

街道伊予・土佐からの伊予・土佐街道。

これらは参詣客が往来した道ですが、同時に生活物資を運ぶ商人の道であったかも

しれません。

なかでも商人にとって大切であったのは、阿波街道であったかもしれません。

参詣客の帰路として利用されることが多く、彼らは鍬・鋸・包丁などの日常生活品を購

入しました。

そうかと思えば人形芝居の一座が、この街道を通ってやってきました。

多度津街道は金比羅で連日消費される食事の補給として重要であり、鮮魚や酒樽が

この街道から入ってきました。

野菜はどうだったのでしょう。量といえば伊予・土佐街道からが、とりわけおおかった

ようです。

しかし金比羅五街道の最大の流通物資は

「讃岐さん白」

です。

砂糖・塩・それに綿です。

讃岐商人の一流どころはこのさんぱくを扱い、次いで紙・陶器・薬草などを商い

ました。

なぜ砂糖がさぬきなのでしょう。

砂糖の原料はさとうきびですが、これは江戸時代もっぱら奄美大島で栽培されて

いました。

幕末の雄藩である薩摩は、このさとうきびの利益におおいに助けられ、藩政改革

を軌道にのせ、明治維新の経済的一翼を担うほどでした。

もちろん藩外不出です。

さとうきび栽培は今でいう企業のトップシ−クレットでした。

それが高松藩では、天保7年の調査では、1378町のさとうきび畑をもち安政5年

には3715町までふえていました。

いったい何があったのでしょう。

新規のプロジェクトはつねにおもいつきのようなものからはじまります。

高松藩の砂糖製造も、「中興の祖」といわれた5代藩主松平頼恭の道楽、思いつき

からはじまりました。

頼恭は本草学を趣味としており、のちの藩主別邸となる岩瀬尾山の南・栗林荘に

薬草園を設けていました。

もとより、殿みずからが土に接したりしていません。

実際は町医者の池田玄丈に任せていました。

あるとき藩主頼恭は、砂糖はつくれないか考えて

「製法を研究せよ」

と玄丈に下命しました。

玄丈にすれば、迷惑だったかもしれません。

彼にどのような知識があったかわかりませんが、当時製糖法は錬金術に似て

完成すれば、莫大な利益をもたらすことは知っていても、ほとんどが不可能なも

のだとあきらめてられていました。

明和3年に藩医に進んだ玄丈は、それ幸いと精糖法の研究を弟子であった向山

周慶に委ねました。

一方2年後の明和5年砂糖製造の技術をもつ池上太郎左衛門という人が高松藩

の江戸藩邸で藩士の吉原半蔵ほかにその製造方法を伝授しましたが、周慶には

伝わっていません。

そのうち周慶から薩摩の浪人医師と仲良くなったり、奄美大島出身の良助が病気

になり、周慶が治療した縁で、郷里の奄美大島から密かにさとうきびの苗を持ち出し、

決死の旅のはて周慶に持参したことが重なりました。

しかし良助は国には帰れば死

周慶を助け砂糖製造の中心的役割を担うことになり、寛政元年ついに二人は砂糖

(黒糖)の試作にこぎつけました。

ここにおいて高松藩あげて砂糖生産の生産機構がはじまりました。

「砂糖製法人」は許可制となり、さとうきびの栽培にたずさわるものは、いずれかの

製造元に所属しなければなりませんでした。

販路も開かれ、「藩領外での砂糖売りさばきには特定の商人が選ばれ、積み出しも

独占商人に委託しました。

プロジェクトは次ぎの課題を克服するべく動きだしました。

白砂糖の製造です。

目鼻がつきかけたころに二人はあいついで他界しました。

二人の砂糖製造は高松藩の財政難を好転に導きました。

天保初年、大阪市場へ送られた和製砂糖のうち、高松領内のものは、約54%を

しめるまでになっていました。

今一つ、高松藩の財政難を救ったものに塩田があります。

もともと気候が温暖で、雨が少ない讃岐は、製塩に向いていましたが、藩の財政


困窮のおり飛躍的に増産に成功したのは、久米栄左衛門の献策あればの

ことです。

船乗りであり、農業も兼業、19歳で天文測量学を学びに大阪に出て、帰郷後

寛政10年に家業をつぎました。

かたわらもともと手先が器用だったので、今風にいう科学の知識も持っており、

多くの鉄砲を開発しました。

ついには藩に召し抱えられ、徒士並三人扶持になりました。

栄左衛門は坂出塩田築造を藩に進言。

ときの藩主・松平頼ひろの賛意で実行に移されますが、普請奉行として工事

に着手した栄左衛門は、播磨の赤穂塩田や周防の三田尻塩田などの長所を

巧みに応用し、独自の「久米式」を完成させました。

海水の注入口と排水溜を分離させて高い生産性をあげました。

途中、造成費用が足りなくなった栄左衛門は自らの土地を売り払い、多額の

借金をして、ついに我が国有数の塩田を開くことに成功しました。


いついかなる時代、地域であっても、創意工夫、努力は商人の根幹

にあるらしいです。