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妙好人庄松


 妙好人庄松(寛政11年生まれ〜明治4年3月4日歿)は、風光優美な片田舎の農村に、谷口清七の倅としてうぶ声をあげた。豊かな自然の山紫水明な環境と調和するかのように、素朴な性格が培われていった。庄松は主に縄ないや草履づくりをしていたが、その間にも子守や寺男として諸所で重宝がられていた。それは庄松の直情径行な人間性によるものであった苦悩の世界に渦巻く欲望、いかりそねみ、ねたみ心の止まない人間関係の中から、あたかも泥中に白蓮華の咲き出づるが如き美しき一人の人間が誕生していった事実の裏には、よき人々に遇われた庄松の一面を見のがしてはならない。
 檀那寺である勝覚寺の第20世住職融海和上は学徳に優れた僧で後に本山興正寺の執事として活躍したが、寺男としての庄松を時には吾が子のように可愛がった。檀家の仏事には寺を出発して檀家に着くまでの道のり三部経典を口ずさんでいく和上の後に、お経や衣を包んだ荷物を担いで歩く庄松にとっては、こよなく有り難い仏縁の場として転ぜられたに違いない。庄松の正しい信心への眼覚は、直接的には寺の役僧周天によって導かれたものであったが、こうした自然におりなされた強縁によって、み佛にまかせきった任運自適の人生の大道を歩む、すばらしき妙好人庄松が生まれたのであった。
 「庄松ありのままの記」に集録された庄松の生涯の言行は禅風に薫る往々奇行とも思われるものによって貫かれたものであった。時には一言居士の直言にも似たものでありながらも、くめども尽きせぬ温かいみ佛の雄叫びがそこに流れていた。
       
         「庄松同行パンフレット」より

※注意!当サイトは庄松さんゆかりの寺ではありません。ご参詣のお方は庄松ゆかりの寺 勝覚寺までお問い合わせ下さい。

 


庄松ありのままの記



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