Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 湖底に射す陽の光 

 第4話 


 淡い光の中、セラティンは瞳を開いた。窓の外の気配が、朝が近いことをセラティンに伝えていた。散々乱暴を強いた兄たちは、まだ深い眠りの中にいた。
(逃げるなら、今だ……)
 その瞬間、セラティンはそう直感した。出来るだけ音を立てないよう細心の注意を払いながら、上着を手にする。そうして、袖だけ通し、セラティンは窓から身を翻した。
「――痛……ッ」
 下草に倒れ込むセラティンの身体を激痛が襲った。
「う……、」
 内腿を残滓が伝う感触に、セラティンは眉を顰めた。身体中が苦痛を訴えていた。
(無理だ……)
 走ることなど、到底不可能だった。
(でも、ここにいたら……、)
 セラティンの身体を、ぞくりと恐怖が走る。下草を掴んだ指が、かたかたと震えた。
「……う、……くッ、」
 形の良い唇を噛み締めて、セラティンは立ち上がった。そうして、重い足を引き摺るようにして、森へと駆け出した。

 足を動かす度に、セラティンの身体は悲鳴を上げた。その足元で枯れ葉が乾いた音を立てていた。
「あ……ッ!」
 両脚がもつれ、セラティンはその場に転がり落ちた。枯れ葉が、セラティンを受け止める。もう何度目になるかも判らない転倒は、セラティンの白い膝にたくさんの傷を作っていた。
「……――ッ」
 また、後蕾から残滓が零れた。それは、セラティンの内腿を伝って枯れ葉の上に落ちた。
(嫌だ……、嫌だ!)
 身体に残る感触を何とかしたくて、両手で枯れ葉を掴んで、セラティンは身体中を擦った。だが、擦っても擦ってもその感触は消えてはくれず、ただセラティンの肌に擦り傷だけを増やしていく。
「――な、に……?」
 突然、セラティンの背筋を何かが駆け上がった。恐る恐る視線を上げると、すぐ目の前に、湖が広がっていた。
「……いつの間に……?」
 あんなに避けてきた湖が、すぐそこにある。
「――あ、」
 湖に引き寄せられる、そんな感覚に、セラティンの身体を恐怖が走った。だが同時に、湖面を見つめる翡翠色の瞳に、誘惑の色が浮かんだ。
(身を沈めたら、死ねるだろうか――)
 湧き上がるその誘惑に、セラティンは無意識に湖に向かって歩を進めた。
 その時だった。
 がさがさがさ、と枯れ葉を踏みしめる音が響いた。反射的に身体を強張らせ、セラティンは近付いてくる気配を振り返った。
「――我が君、」
 息を切らせながら、大樹の影から現れたその青年に、セラティンは息を呑んだ。
 セラティンが彼の姿を見るのはこの瞬間が初めてだった。声を聞くのも初めてだった。だが、その気配は、セラティンがいつも全神経で追い掛けたそれに間違いなかった。
(『彼』、だ……)
 瞬時にそう理解し、セラティンは胸が高鳴るのを感じた。駆け寄りたい、そんな衝動がセラティンの中に込み上げてくる。
 だが、駆け出そうと足を向けた瞬間、セラティンは今の自分の姿を思い出した。
「――あ……、あ、あ、」
 身体中が、汚されたままだった。近付けば、何があったのか彼に知られてしまうことは明白だった。
「いや、だ……ッ」
 短くそう言い捨て、セラティンは後退った。一歩、二歩、後退したその足に、ぴちゃっと湖面が触れた。
「我が君ッ!!」
 青年が叫び声を上げた。
 次の瞬間、大きな衝撃音とともに、湖面が震えた。
「う、あ……ッ」
 自分自身の両肩を抱えながら、セラティンがその場に崩れ落ちる。
「な、に……? 何が、起こって……?」
 湖に触れた足元から、ざわざわざわと何かが変化していくのを感じ、セラティンは恐怖に顔を引き攣らせた。そうして、大気を吸い込もうとして、上手く息が吸えないことに気付いた。
「……苦しい……ッ」
 思わず伸ばしたセラティンの手を、駆け寄った青年の手がしっかりと掴んだ。そうして、青年は湖に引きずり込まれそうなセラティンの身体を引き寄せて、その腕の中に抱き締めた。
「あ……、」
 見上げたセラティンの瞳に、青年の姿が映った。明らかに人ではないその姿にも、セラティンは不思議と驚きを感じなかった。それよりも、しっかりと自分を見てくれるその眼差しが、セラティンにとって何よりも嬉しかった。人でなくてもいい、何者であってもいい、両手を伸ばして、セラティンはその青年をぎゅっと抱き締めた。そうして、青年の腕の中、セラティンは意識を手放した。
「…………」
 無言のまま、青年は意識を失くしたセラティンの身体を、出来うる限りそっと枯れ葉の上に横たえた。そうして、一瞬だけ躊躇した後、何かを確認するかのようにセラティンの肌に触れた。
「――何故……ッ!」
 白い肌に浮かぶ微かな魚鱗、細い指の間に出来た小さな薄膜――。セラティンの身体に、その変化の兆しを見出して、青年は悲痛な声を上げた。
「もう、止められない……」
 青年の蒼い瞳に、浅い呼吸を繰り返すセラティンの姿が映った。
「最早、猶予はない……か」
 セラティンの身体を抱き締めて、青年は決意を固めた。
「お許し下さい、我が君……」
 最後にそう声にして、青年はセラティンの身体を開いていった。




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