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青年の腕の中で、セラティンは苦しそうにもがいた。だがそれも僅かな時間だった。水の中にも関らず、落ち着いていくセラティンの呼吸と鼓動に安堵しながら、青年は湖底へと急いだ。陽の光が遠ざかっていく。代わりにぼうっとした微かな青白い光が、2人を受け止めた。
湖底都市ヴィンダーフィル。
陽の光も届かない深い深い湖の底に、その美しい都はあった。
再び意識を失くしたセラティンを腕に抱き、青年は、都の中心にある巨大な建物の中に入った。真っ直ぐに向かった先には、主を亡くした今も圧倒的な存在感を持つ、大きな玉座があった。
「……我らが女王、サラフィさま」
玉座の前に跪いて、青年は亡き主の姿を思い出した。
「セラティンさまです。あなたの御子です。どうか、どうかお力を……」
切なる願いを声にして、青年はセラティンを抱き締めた。
「だが、出来ることなら、叶うものなら、お連れしたくはなかった……」
小さな声で本音を漏らし、そうして一呼吸置いて青年は立ち上がった。後戻りできないことは、青年もよく承知していた。
「我が君……、セラティンさま」
もう一度大切なその名を口にして、青年はセラティンの身体をそっと玉座に預けた。
セラティンの身体が、玉座に触れる。その瞬間、どん、という衝撃とともに、玉座が光に包まれた。
「――ぐッ!」
弾き出され、床に倒れ、青年は苦痛の声を上げた。
「うあああ――……ッ!!!」
だが、それ以上に苦痛の叫びを上げたのは、セラティンの方だった。
「な、何が、起こっている……!?」
よろめきながら、青年は驚きの声を上げた。その見開いた瞳に、都市全体が眩い光に包まれていくのが見えた。衰弱しかけていた都は、かつて女王が存命だった頃の輝きを取り戻しつつあった。だが対照的に、セラティンの顔から生気が薄れていくのが見て取れた。
「まさか、まさか我が君のお命を吸い取っているとでもいうのか……ッ!」
青年の喉から悲痛の叫びが上がる。同時に何とかセラティンを救い出そうと手を伸ばしたが、見えない何かに弾かれ、それも敵わなかった。
「――そのとおりだ、ラスク」
青年の背後から、抑揚のない低い声が響いた。
「……兄上」
振り返り、そこに立つ人物の姿を確認して、青年――ラスクはそう呟いた。圧倒的な存在感を纏う兄ソウガを見つめるラスクの瞳に、怯えの色が混じる。
「愚弟のすることぐらい判る。出来損ない同士、憐れみを感じたか」
頭上から吐かれたその台詞に、ラスクは唇を噛み締めた。
出来損ない――。それがラスクに貼られたレッテルだった。湖底に棲まう者でありながら、その中にあって最も高貴な神官の家系に生まれながら、陸で呼吸が出来る異形の存在、それがラスクであった。
そうして――。
「穢らわしい……」
忌まわしき者を見る視線で、ソウガは苦しむセラティンを見下ろした。
「我らが上位種族、崇めるべき女王の血を継ぎながら、男の姿とは……」
ラスクたち湖底人たちの上位種族の最後の1人、それがセラティンだった。本来女しか生まれないはずの種族、その絶大なる力でもって玉座から湖底都市を守る女王――。男が生まれるなどあってはならないことであった。それ故、セラティンは、生まれ落ちたその日に、陸へ追放された。陸で呼吸できない湖底人にとって、それは死刑を意味していた。
「それにしても、人柱にしかならぬと思っておったが……。出来損ないとはいえ、さすがは女王の血を引いているといったところか」
光を取り戻した都市を見つめ、ソウガはくすりと笑みを零した。
「だが、それも限界のようだな」
玉座に倒れ込むセラティンの顔には、既に血の気は殆どなかった。
「――兄上ッ!」
ラスクが嘆願の声を上げる。出来損ないの自分ではなく、兄なら玉座にも近付けるはずだった。
「心配せずとも、他に御子を残さずサラフィさまが身罷られた今、簡単に死なせるわけにはいかぬ」
そう吐き捨て、つかつかと玉座に近付き、ソウガはセラティンの腕を掴まえた。そうして、そのまま乱暴に玉座から引き摺り下ろした。
「――我が君ッ!」
セラティンの元へ駆け寄り、微かな呼吸を確認して、ラスクは安堵の息を漏らした。そうして、ごくりと生唾を飲み込んで、兄ソウガを見上げた。
「兄上といえど、我が君に危害を加えることは……」
「黙れ」
一際低い声が、ラスクの言葉を制する。
「その出来損ないの君に、湖底人としての変化をもたらし、ここまで連れて来た功績は認めよう。だが、私が関知する前に玉座に据え、王に仕立てようというとは何処までも愚かな奴だ」
「……ですが、兄上は、」
「そうだ。この美しい都を維持するためには女王の力がいる。その出来損ないではかつての女王たちのように玉座を守ることは出来まい。私は、お前が察したとおりのことをするつもりだった」
口元に笑みを浮かべて、ソウガは事も無げにそう告げた。
湖底都市を維持するためには、2つの方法がある。1つは、女王が玉座に着き、その力を分け与えること、そうしてもう1つは、この都市の最深部に存在する、神官しか辿り着けない湖底神殿において、女王の血を流すことだ。前者は無理だと判断したソウガは、セラティンを湖底神殿に連れて行き、人柱として永久に血を流させる、そう計画していた。セラティンのことなど、初めから何とも思っていないのだ。
兄の台詞に、ラスクの瞳に怒りが浮かぶ。
「――つもり“だった”と言っている」
そんな弟の様子を、ふうっと息を吐いて呆れながら、ソウガは言葉を足した。
「お前の愚かな行動のお陰で、その出来損ないの君でも、少しは使えることが判った。――ならば、私が、使える王にしてやろう」
ラスクの腕からセラティンを奪い取り、くっくっと笑うソウガの瞳には、残虐な色が浮かんでいた。
「な、何をなさるおつもりか……ッ!」
「お前はそこで見ておれ。――最も、出来損ないのお前では、湖底神殿まで生きては辿り着けまいがな」
「――兄上ッ!」
掴もうとしたラスクの手は、強い力で弾かれた。それでもなお阻もうとするラスクをせせら笑うかのように、ラスクの目の前でソウガはセラティンとともに最も深い湖底へと姿を消した。
「――我が君、」
小さく呟いて、ラスクはその場に膝をついた。
天を仰ぎ、瞳を伏せる。閉ざしたラスクの瞳の奥に、森を駆けるセラティンの姿が浮かんだ。
陽に透けた若葉を思わせる美しいその瞳が、裏切られたようにじっとこっちを見ている、そんな気がして、ラスクはその瞳から目を反らすことが出来なかった。