Ring's Fantasia

ほんの少し羽根を休めて、現実(いま)ではない何処かに旅してみたいと想いませんか?



 湖底に射す陽の光 

 第8話 


 「……お目覚めですか? セラティンさま」
 それは、随分とやわらかな声だった。突然割って入ってきたその声に、反射的に身体を強張らせ、セラティンは声の主を振り返った。
 姿を現したその青年は、警戒し強張るセラティンの姿に気付くと、出来るだけ刺激しないようにすっとその場に膝をついた。
「ネストと申します。あなた様には一目だけお会いしたことがあります。――もっとも、物心つくかどうかの幼子と、生まれたばかりの赤子でしたけどね」
 そう付け足して、ネストは顔を上げ、セラティンの警戒を解くようににっこりと微笑んだ。その笑顔につられるように、セラティンも微かに口元に笑みを浮かべた。
(やはりお美しい……)
 セラティン自身は全く理解していなかったが、間近で見るその美貌に、ネストは思わず息を呑んだ。美しい、そう一言で表現することさえも憚れる、圧倒的な美貌である。環境によっては、羨望の眼差しを浴びただろう。
(だが、この方にとっては、不幸、か……)
 ここに来るまでの経緯を、ネストは従兄であるソウガから全て聞いていた。セラティンは、養い親に売られ、複数の男たちに乱暴されたのだ。セラティンが意識を失くしていた間、身の回りの世話をしていたネストは、身体中に残る酷い陵辱の跡も目の当たりにしていた。
(ソウガ従兄(にい)さまも、酷なことをなさる……)
 その全てを仕組んだのは、ソウガだ。
 湖底都市ヴィンダーフィルを守るため、ソウガは、一度は切って捨てたセラティンを呼び戻すことを決めた。赤子のとき殺すつもりで陸に上げたはずのセラティンが、人間へと姿を変えて生き延びていたことが判ったのはつい最近のことである。そうして、何故か湖に近付こうとしないセラティンを再び湖に連れ戻すため、ソウガはセラティンの養い親を唆したのだ。
(ラスク従兄(にい)さまは、どうなさるおつもりだろう……)
 当時、セラティンを追放する大役を担ったのがラスクだったことも、ネストは聞いていた。どういうわけか、ラスクは、セラティンが生きていることを隠し続けてきた。だが、セラティンに精液を注ぎ込み、急速に変化させてヴィンダーフィルに連れて来たのも、ラスクであった。
「……聞いても、いい? ネスト」
 その声に、ネストはセラティンに意識を向けた。まだ17歳の少年は、意外なことにしっかりとした視線でネストを見つめていた。時折震える指先は、セラティンがまだ全ての現実を受け入れ切れていないことを物語っていたが、それでも翡翠色の瞳は知るべき事実に向き合おうとする意思を浮かべていた。
「何なりと」
 セラティンの決意に答えるべく、ネストは大きく頷いて見せた。
「……此処は?」
「湖の底に存在する都市、ヴィンダーフィル。その最も深い場所にある湖底神殿です。私たちは湖底に棲まう者です」
 ネストの答えに、セラティンは一瞬だけ瞳を見開き、そうして、こくり、と頷いた。セラティンの瞳に映るネストもまた、明らかに人間ではなかった。そのことが、ネストが告げる言葉が紛れもなく真実であることを物語っていた。
「……僕、も?」
 恐る恐る問い掛けるセラティンに、ネストは小さく首を振った。
「正確には違います。セラティンさまは私たち湖底人の上位種族でらっしゃいます。絶大なる力を持ち、この湖底都市を支え続けた一族の、最後のお1人です。セラティンさまは、先代の女王サラフィさまが残された大切なお子さま。この湖底神殿には、女王と神官しか生きて辿り着けません。今ここで生きてらっしゃることが、あなたが女王の血を継がれる方だということの何よりの証拠です」
 セラティンを傷つけないように、慎重に言葉を選びながら、ネストは説明を続けた。翡翠色の瞳でじっと見つめながら、セラティンもその言葉を理解しようと努めた。
「では、あなたは……?」
「はい。神官の家系です。もっとも私は傍流ですが。直系はソウガという名の私の従兄です。そして、セラティンさまをヴィンダーフィルにお連れしたのは、ソウガの弟に当たり、ラスクと申します」
「ラスク……」
 その名を口にして、セラティンは瞳を伏せた。
 『彼』の名前を知ることが出来た。ただそれだけのことに、セラティンは驚くほど喜びが湧き上がってくるのを感じた。人間ではなかったという衝撃も、ラスクと同じだとそう思えば、あまり恐ろしいとは思わなかった。
(次に会ったら、その名前を呼んでみようか……)
 そう考えると、不思議なくらいにセラティンの心は躍った。
「……セラ、ティン、さま……?」
 ほんの少し頬を紅潮させるセラティンの僅かなその変化を、ネストはしっかりと感じ取った。
(セラティンさまは、ラスク従兄(にい)さまに恋してらっしゃる……?)
 その考えに行き着いたとき、ネストは目の前が真っ暗になるのを感じた。
(これから、起こることを、どうお伝えすれば……)
 湖底神殿の奥で眠る3人とともに、セラティンを人柱にする――。その計画が中止になったと聞いたとき、ネストは深く安堵した。王となり玉座に君臨していただければ、それほど喜ばしいことはない。だが、今のセラティンでは力が足りない、それも事実だった。
 『神官の血筋とはいえ、所詮は出来損ない。ラスクの体液にはそこまで力はなかろうよ』
 湖底神殿にセラティンを連れて来た時、ぞっとするような笑みを浮かべてソウガはそう語った。
 湖底人の体液には力が宿る。その体液を通じて、力を奪うことも与えることも可能なのである。つまり、力を分け与えるには、その血を与えるか、精を注ぐか。そうして、ソウガが前者を選ぶことはありえないことも、ネストにはよく判っていた。
(ソウガ従兄(にい)さまは、セラティンさまを抱くおつもりだ……)
 そのことがセラティンをどんなに傷つけるか、そう考えると、ネストは背中に冷たい汗が流れるのを感じずにはいられなかった。
「ネスト」
 最悪のタイミングで割って入ってきたその声に、ネストはごくりと息を呑んだ。
「……ソウガ、従兄(にい)さま……、」
「目が覚めたら呼べと、そう言っておいたはずだか」
 そこには、ソウガその人が立っていた。




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