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庄松ありのままの記2


 邪見の角

◆ある寺で京都から名僧と評判の布教使が来られたので庄松さんもお参りしていました。するとお説教を聞いていた隣の人が、涙を流して「いやー今日の説教のありがたいこと、おかげで日頃の邪見の角が折れました」とつぶやきつつお念仏されるのを、そばで聞いていた庄松さんが「また生えにゃよいがのう、わしは角があるままのお助けと聞いたがな・・。」と、ひとりごとのように言われたそうです。
 
◇正信偈に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」とあるように浄土真宗では「煩悩を断(た)たずして涅槃を得る」という教えです。阿弥陀仏の大悲心におまかせしてみると、邪見(悪業煩悩)の角があるがままに救われていく悦びがあります。仏の教えを聞いてすぐにいい人間になるというのではなくて、凡夫のままに救われていく世界を庄松さんは感得されていたのです。


 地獄極楽はあるの?

◆ある時、五名(ごみょう)村(徳島県との県境)の駒造さん宅で、庄松さんを招いて法座が開かれました。その席である同行さんが「地獄極楽があるということだが、一度も見たことがないのでどうしても疑いがはれません」と庄松さんに質問しました。すると庄松さんは、南の山を指さしまして「これこれ同行さんよ、この山の向こうには阿波(徳島県)という国がありますよ」と答えたそうです。
 
◇ここからは見えないが、この山の向こうに阿波の国がある、このことは阿波の国へ行ったことがない人でも疑う人はいないでしょう。それと同じで地獄極楽もお釈迦さまが説いていることだから、たとえ目には見えなくともそのことを疑うことはないですよ、と。仏教は地獄極楽があるかないかを証明する学問ではないということ。その教えを信じられるかどうかが大事であるということです。



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