凡夫(ぼんぷ)が仏になるより上のことはこんぞ ◆津田村の神野(こうの)というところに住んでいる田中半九郎という人が庄松さんに「最近、困ったことに耶蘇教(やそきょう)(キリスト教)を布教してくる人が入ってきている」というと庄松さんが「耶蘇教が入ってきても凡夫が仏になるより上の教えはないぞ」と言われたそうです。 ◇庄松さんの生きられた江戸時代末期から明治時代にかけてはキリスト教に限らず、あらゆる思想や宗教が生まれてきました。新しい時代と共に他の宗教に感化されていかれた方もおられたことでしょう。しかし、庄松さんは欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)を抱えて生きることしかできない私たちに「本願を信じ、念仏申(もう)さば、仏になる」と説かれた親鸞聖人の教えを一途に生きられた方でした。 御文章がアイコですむなら・・・ ◆庄松さんには与左衛門と仲蔵という二人の甥がいました。兄が新家をして嫁をもらい、弟の仲蔵が家督を相続することになりました。庄松さんは兄の与左衛門に「新家だから早速、御文章を頂いてやりたい」というと「当分は弟の仲蔵の家にあるから相持ちでいい」と与左衛門がいうので、庄松さんが「御文章が相持ちですむなら嫁も相持ちにしたらどうじゃ、どうじゃ」といわれたそうです。 ◇文字の読めなかった庄松さんでしたが、蓮如上人のお書きになった御文章には浄土三部経と同様に「人生のよりどころはただ念仏である」と読めていたのではないかと思います。結婚する甥に対して、嫁も相持ちにしてはどうじゃ、という荒唐無稽な言動ではありますが、人生のよりどころである御文章を迎えずして家庭生活もあったものか、という庄松さん流のいましめの言葉であったわけです。 |
ありのままの記2 | ありのままの記4 |