
その5「遠いまぼろし」
水の流れるのを見ていた。
弾かれる水しぶき、流れて行く水・・吸い込まれるようにすべての水が、黒い穴の中に流れていく・・ソコへいくしか道はないのだと・・。
蛇口をしめる音。
「せっすい」
顔を上げると、覗き込むようにして青島の顔があった。
「貴重な水です。ご協力くださいね。」
「・・・。」
「室井さん。」
「・・・。」
青島の目は少し色素が薄い、動物の目がこんな感じだ。
まっすぐに、言葉ではなく心を覗き込む瞳。
「室井さん?」
「・・!」
青島の顔に見入っていた自分に、室井は少し驚いた。水を観察していた同じ調子で、青島を観察していた。今はそんな場合ではない。
「い・・」
「忙しいのは判ってます。」
でも、と青島は続ける。
「今、ここでアナタに言いたい事があるんです。」
「・・・。」
「室井さん。アナタでないと、駄目なんです。」
一歩足を踏み込んで、室井の右腕を掴む。
「・・離せ」
掴まれた腕を振り上げる。こんな拘束みたいな事をされるのは嫌だった。
「離しません。」
更に左腕を掴まれる。両腕を掴まれるかたちとなったことに、不愉快さを隠せない室井は、両手を顔の前にあげてこれはなんのまねだ?と睨んむ。
「・・・!」室井の両腕を掴む力が強くなった。
「おまえ・・いいかげに・・」
「いいかげにしてほしいのは、こっちです!」
煥発いれずにかえってきた青島の科白に驚いて室井は顔をあげる。
そこには、怒っているような、泣きそうな、複雑な顔をした青島の顔があった。
「・・・・。」
「アンタでないと駄目なんだ。・・なんで、判ってくれないんですか?」
他の誰でもいいって訳じゃないんだ。
青島がそう訴えるたぴに室井は悩んだ。何故自分なんだろう?
この疑問をぶつけたら、もっと怒るだろうか?それとも飽きれられて、目の前からいなくなってしまうだろうか。この男が目の前からいなくなる。
それは、想像しただけで、心に空虚感がうまれるほど、寂しい悲しい事だった。
それでも、こんなに真剣に向かってくる男の気持ちに、答える力が自分にあるのか。室井にはどうしても判らない。
何故、自分でなければいけないなんていいきれるんだろう?
たしかに自分の中で、彼等の期待に答えようとする気持ちがあったような気もする。自信に似たものが溢れていた事もある。だけど今は判らない。
言葉だけで飾られた世界に、室井は何を信じて良いのか判断ができなくなっている。
信じても裏切られる事がある。信じきれなかったモノに、助けられていた自分もいる。誰が自分は間違ってないのだといいきれる?
掴まれた腕の強さに、心が崩れてしまいそうになる。
「判らない・・。」
おもわず思考が口から溢れた。
腕の中にすっぽりと治まりそうな細い肩が僅かに震えている。閉じられた目蓋が苦しげ揺れる。項垂れた頭。
誰よりも前を向いて歩いて欲しい人を、誰よりも苦しめている自分を、青島は自覚している。
彼は一人でこの巨大な組織と戦っている。側に居るなんて嘘だ。それはただの気休めの言葉でしかない。
独りで苦しみ、独りで傷つく
彼の背負っている沢山の者立ちの身勝手な想い。
自分もその一人に過ぎない
彼に執着している。
その重荷にじっと堪え、強い意志と熱い情熱を秘めた。揺るぎないまっすぐな姿勢から目を逸らす事が出来ない。
今、この手の中にある小さな震える身体を、フイに強く抱き締めてしまいたいと思った。
一緒には歩けない。総てからあなたを守る事は出来ない。
だけど、今この瞬間だけなら貴方を守り抱き締める事ができる。
青島は室井の両腕から手を放して、力強く抱き締めた。それは驚いた室井がいくらもがこうとも微動だに出来ない程の力。
「・・貴方はそのままでいいんです。」
優しく囁かれるような言葉。男らしい広い胸と、大きな逞しい腕に守られる中で、室井はここで泣けてしまえば楽だと思った。
(そうやって置いて行くくせに・・。)
この男はズルイ、口先ばかりが上手でどこにいったって上手く立ち回って、平気な顔で自分を置いてサッサといってしまうにちがいない。
騙されてやらない。
この熱い体温に、胸を直接うたれるような鼓動に、この優しい腕にはもう騙されない。
自分には見極める力が必要だ。盲目になっては駄目だ。
願うように、自分にいいきかせるように・・真実見抜く瞳を欲する。
この腕の力は本物なのか?・・それとも偽りの・・
室井はゆっくりと首を左右に振る。
「室井さん?」
青島の声。
もう嫌だった。こんな疑り深い自分に何が判るというのだ。
何も判らない。自分の事も判らない。
青島の事も判らない。
震える。室井はふいに自分が恐ろしい考えに陥った事にきがついた。
疑う。なにもかも、否定する。これまでの自分、今までの自分。
正しい事はなんだった?何に憤っていた?
世界の基準が変わる。
自分は、自分達は何をしょうとしていた?
あんなに力強く思った事が誓った言葉は、今は儚くもろい。夢・・所詮夢・・。
幻想だ。
夢をみる事を夢みた。
もう・・沢山だ。今さらだ。何もかもとっくに分かっていたはずなのに、今さらじたばたと足掻いて・・この男の姿を見て、触って感じただけでこんなにも心が乱される。
いいきかせるように、打ち消す。
心にともる灯火を、光を、希望を・・受け入れてはいけない。迷ってはいけない。同じ過ちを繰り返す。
信じてしまおうとするこの弱い心を、強く強く叱咤して押さえ付ける。
だからダメなんだ。
別の声が聞こえる。
だから駄目なんじゃないのか?
目の前にいる男を信じたい自分。
迷って迷って押さえ付けて、正常な判断力を失って、何も見ずに逃げる自分を避難するもう一人の自分。
室井は混乱している。自分の思考の嵐と戦っている。
青島の腕の中で、崩れそうになる心とそれを頑に拒絶する力。
お互いがお互いに相手を傷つけたと思ったあの傷は癒されてはいなかった。
傷口から不信感という名の花をさかせ、毒の粉を全身にまきちらせる。
うすっぺらい言葉になんか騙されない。
序章
その1「わかれる道」
その2「伝わらない言葉」
その3「踊り続ける人形達」
その4「届かない」
その5 「遠いまぼろし」
その6 「虚像の願い」
その7 「背徳と事件」
その8 「夢を見るなら、良い夢を」
終章
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