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悪夢のようだった。未だに手にあの血の、肉の感触が鮮やかに蘇る。 室井は自室に帰ると、電気も付けずにその場にしゃがみこみ、頭を抱えてしまった。ひどい頭痛がする。目眩もする。事件が終わり報告を済ませた室井は、強力な意思の力で自宅への道のりを歩いていた。ドアを開けるとともに、空気の抜けた風船のように力が抜けてしまった。 血の匂いが体中からする。頭から、身体から、首から、顔から・・鉄分を含んだどろりとした血の匂いが、霧状になって自分を包む。体臭のようにまとわりつき離れない。 「あ・・・ぉ・・しま・・。」 つぶやいた言葉は空々しく空回りし、何の余韻もなく消えていく。青島のケガが室井に今までにないダメージをあたえた。加えられる痛みにならば、いくらでも耐えてみせよう。だが・・そうではない。自分が守らなければいけない者を傷つけた。傷つけたのは、他の誰でもなく自分自身。 青島の血がついたシャツを握りしめて、室井はきつく唇を噛む。血の味が口内に広がる。 「室井さん、貴方は判断を誤った。」 「貴方は貴方の信念とやらに忠実にしたがったのかもしれないが・・結果はこの現実だ。やはり貴方はあの所轄の刑事に惑わされ過ぎです。」 特捜が解散した時に新城が背中から声をかけてきた。今までに聞いたこともない。穏やかな口調に、私は振り返って彼の真意を探る。 「どういう意味だ?」 「もう・・貴方自身がよく判っているはずです。」 新城の脳裏にフイに青島の言葉が蘇る。『守ってばかりのアンタに・・・』何もかも捨て去る覚悟のある人間に私が何を言えるだろう。 「私には貴方を止める事は出来ない様ですから・・これからの貴方の行く先を・・とても楽しみですよ」 室井の姿に自分をうつしていたのだと今なら判る。所詮自分は自分でしかない。室井にはなれないしもちろん、室井も新城にはなれない。どうやら夢は自分で掴み、自分で背負う物らしい。新城には新城にしか歩めない道がある。そこを共に歩む者は現れるが、それはまた別の話。 「・・・私の行く先など、もうないかもしれないぞ」 「・・なくても行くでしょう?あの所轄の刑事に惑わされて」 室井の言葉など新城は最初から相手にしないように、素っ気無く会議室を出ていってしまった。 青島はズルイ男だ。と、新城は思う。以前からずる賢そうな奴だとは思っていたが・・こんな酷い手口はみたことがない。もうこれで室井が青島の事を忘れようだなんて思わない・・イヤ出来なくなった。 もう見えない絆や友情や信頼。ましてや共通の夢などと甘い物ではない。室井にかけられたのは、青島という名の呪縛だ。 本当にズルイ男だ。ズルすぎて自分に出来ることは、本当に何もないのだという現実を、認めずにはおれなくなったではないか。青島の背中に、黒いコウモリの羽根があったって驚きはしないさ。新城は苦い笑みを浮かべて何かが吹っ切れたように心が軽くなるのを感じた。 室井は怯える子供のように暗闇に蹲る。街の喧騒が遠くから聞こえる。自分以外の他人が自分とは無縁のトコロで生活をしている。 人の生死にかかわる決定権など誰にも持てない。干渉など決して出来ない。出来ないのに・・何故なんだ! 室井の顔に刻み込まれた苦渋の表情が闇に沈んでいく。 惨いことをした。青島はベットの中で考えていた。薄れ行く遠い意識の中で聴いた室井の声を思い出す。 確かに自分は怒っていた。上層部の手柄の奪い合いのような会話に・・だが本当にそれだけだっただろうか?追い詰められている室井をもっと追い詰めて、もっと苦しめたいと少しでも思わなかったと言えただろうか? いや・・わかっていた。彼は今苦しんでいる。自分にあんな命令を出した事に、こうやって傷付き倒れている自分に対して懺悔の気持ちと後悔の念に苛まれている。 そうなる事を自分はわかっていた。あの人を苦しめたいと、自分の事で苦しみ苛まれ溺れさせたいと思っていた。 時々、自分はあの人を憎んでいるのかもしれないと思う。 序章 その1「わかれる道」 その2「伝わらない言葉」 その3「踊り続ける人形達」 その4「届かない」 その5 「遠いまぼろし」 その6 「虚像の願い」 その7 「背徳と事件」 その8 「夢を見るなら、良い夢を」 終章 |